第101話 百十歳、地下闘技場へ足を踏み入れます
「おい」
華やかな大通りを離れようとしたところで、背後から声が飛んできた。
振り返ると、《ウィーン武器商店》の扉からウィーンが顔を出している。片手には先ほどと同じ煙草があり、わしらが足を止めたのを確認すると、当然のことでも言うように口を開いた。
「その赤ん坊は置いて行きな」
「……え?」
セレナが目を丸くし、抱いていたわしを反射的に胸元へ寄せる。
(赤ん坊……わしのことか)
「どういうことですか?」
「言っただろう。あそこまで醜い場所はないって。そんなところに赤ん坊まで連れていく気かい?」
「それは……」
セレナが言葉に詰まった。
地下闘技場が、人と人を戦わせ、どちらが死ぬかにまで金を賭け、時には奴隷さえ賞品として扱う場所だということは聞いたばかりだ。赤子を連れていくような場所ではないことくらい、セレナにだって分かっているのだろう。
「でも、どこにも預けられる場所なんて――」
「私が預かってやろうか?」
「え……」
セレナは一瞬黙ったあと、露骨に嫌そうな顔をした。
「おい。そんな顔することないだろ」
「だって……あなたのことを全部信用したわけではないから」
(まあ、そうじゃろうな)
知り合ってから、まだ一刻も経っていない。冒険者ギルドと長い付き合いがある武器商人とはいえ、そんな相手にわしを預ける気になれないというセレナの感覚は、至極まともなものだと思う。
ところが、ウィーンは気を悪くした様子もなく、「そりゃそうか」とあっさり頷いた。
「じゃあ、ちょっと待ってな」
そう言い残して店の奥へ消え、しばらくすると大きな背嚢を抱えて戻ってきた。
茶色い革で作られた背嚢は、ところどころ擦れて色が落ちている。それでも太い肩紐や金具はしっかりしていて、随分と頑丈そうだった。
「昔使ってた背嚢だ。その赤ん坊なら、すっぽり入るだろう」
「レオンを……?」
「ああ。普段は顔を出させておけばいいさ」
ウィーンは背嚢をセレナへ差し出しながら、先ほどまでより少しだけ真面目な顔になった。
「嫌なものを見そうになったら、蓋を閉めてやりな」
セレナは差し出された背嚢を見つめ、それからウィーンへ視線を戻した。
「い、いいんですか?」
「全部終わったら返してくれればいいよ」
「……ありがとうございます」
セレナが深く頭を下げると、隣にいたマルタも続いた。
「ウィーンさん。あんたのことは覚えておくよ」
「わ~た~し~に~は~、な~ん~か~な~い~の~?」
「お前も頭を下げな」
「わっ」
マルタがカラリンの頭を掴み、そのまま強引に押し下げた。
「い~た~い~よ~、し~しょ~う~」
「いいから礼を言いな」
「あ~り~が~と~」
ウィーンはそんな二人を見て少しだけ笑うと、煙草を口へ運んだ。
「気にしないで。友達、見つかるといいね」
「……はい」
セレナが頷く。
ウィーンはそれ以上何も言わず、まるで大したことなどしていないような顔で煙を吐くと、こちらへ背を向けて店の中へ戻っていった。
(ウィーン、か)
接客する気はなく、口も軽い。会ったばかりの赤子に母性本能を刺激されるなどと言い出す変な女ではあるが。
(……悪い人間ではなさそうじゃのう)
◇
リルート南区へ入ると、大通りから一本、また一本と道を外れるたびに、町の雰囲気が変わっていった。
商人たちの威勢のいい呼び声は遠ざかり、代わりに聞こえてくるのは酒場から漏れる怒鳴り声や下卑た笑い声。何の店なのかも分からない看板が並び、路地の隅には昼間から酒瓶を抱えて座り込む男もいる。
こちらを値踏みするような視線も、一つや二つではない。
(なるほど。まともな者は近づかない、か)
ウィーンがそう言った理由が、少しずつ分かってきた。
もっとも、今のわしにはその光景の大半が見えていない。
南区へ入ってしばらくしたところで、セレナが「ごめんね。少しだけ我慢して」と言って、背嚢の蓋を閉じた。
真っ暗な背嚢の中は、思っていた以上に空気が籠もる。
(……少し息苦しいのう)
わしが小さく身じろぎすると、すぐにセレナが気づいた。
「レオン? 大丈夫?」
「あぅ……」
「苦しい?」
返事の代わりにもう一度身体を動かすと、今度はマルタの声が聞こえた。
「ちょっと待ちな」
背嚢の外で何かを小さく唱えた直後、柔らかな風がわしの頬を撫でた。冷たく清らかな空気が背嚢の中へ流れ込み、籠もっていた熱気がゆっくりと外へ抜けていく。
(おお、これは助かる)
「どうだい?」
「あぅ!」
「それなら良かった」
(本当に器用な婆さんじゃ)
魔法とは戦うためだけに使うものではないらしい。
そんなことを考えていた時だった。
「おい」
知らない男の声が聞こえ、セレナの足が止まった。
「なんだ、女か?」
声は一人ではない。周囲から聞こえる気配を考えれば、どうやら複数の男に囲まれたらしい。
「退いて」
セレナは冷たく言った。
「あんたには興味ない」
「つれないこと言うなよ。なあ――」
男が言い終えるより早く、何かが派手に地面へ叩きつけられた。
「ぐぇっ!?」
続いて周囲からどよめきが起こる。
「お、おい……今、手を払っただけだよな?」
「ぶん投げちまったぞ……!?」
(なんじゃ?)
どうやら、周囲の者にはセレナが男を投げ飛ばしたように見えたらしい。
だが、わしは背嚢の中で微かに空気が動いたことに気づいていた。マルタが先ほど使った清らかな風とは違う。一瞬だけ地面を這うように吹き、男の足元を掬った風。
(……カラリンじゃな)
恐らく、男がセレナへ手を伸ばした瞬間、セレナがその手を払い、同時にカラリンが魔法で足を掬ったのだろう。
結果だけを見れば、大の男がセレナの細腕一つで吹き飛ばされたようにしか見えない。
(やるのう)
一週間、マルタに魔法の基礎を叩き直された成果が、思わぬところで現れたようじゃ。
やがて、シュッと金属を抜く音が聞こえた。
あれは、リーナがセレナへ貸したスローイングナイフだろう。
「ねえ」
セレナの声が低くなる。
「私たちより強いリザードマンを知らない? 彼に用があるのだけれど」
「し、知ってる! 知ってる!」
「どこ?」
「あ、あっちだ! 地下闘技場の方へ行った! でかいリザードマンだろ!?」
「そう」
「な、なんだよ……あいつの連れかよ……!」
「どうも」
セレナは妙に落ち着いた声で答えた。
「命だけは助けてあげる。失せて」
「ひっ……!」
慌ただしい足音が遠ざかっていく。
周囲にいたらしい者たちも、誰一人として口を挟まない。先ほどまでのざわめきが嘘のように静かになった。
「セレナ、あんた……」
最初に口を開いたマルタだったが、途中から堪えきれなくなったらしい。
「くくっ……随分と板についてたじゃないか」
「え~ん~ぎ~は~」
カラリンも楽しそうに笑う。
「じょ~う~ず~だ~ね~」
「もう。カラリンが上手く合わせてくれたからでしょ」
「え~へ~へ~」
「しかし、『命だけは助けてあげる』とはねえ」
「だって、こういうところでは舐められない方がいいんでしょ?」
「誰に教わったんだい」
「今、なんとなく」
とうとうセレナまで笑い出した。
(……お主、意外と楽しんどらんか?)
「行きましょう」
ひとしきり笑ったあと、セレナが言った。
ガルドが地下闘技場へ向かったことは、これではっきりした。
◇
男が指差した方向へ進むにつれて道はさらに狭くなり、やがて一行は古びた建物の前で足を止めた。
地下闘技場などという物騒な看板が掲げられているわけではない。入り口らしきものは裏手にある重い扉だけで、知らなければ倉庫とでも思って通り過ぎてしまいそうな場所だった。
セレナが扉を叩く。
しばらくすると僅かに扉が開き、低い男の声が返ってきた。
「何だ」
「闘技場に入りたいんですけど」
「初めてか?」
「ええ」
「一人銀貨一枚だ」
「……高くない?」
「嫌なら帰れ」
思わず素に戻ったセレナへ、マルタが小さく笑う。
「払うよ。ガルドを探しに来たんだろ」
「……分かった」
三人分の硬貨を渡すと、ようやく扉が開いた。
「階段を下りろ。途中にもう一つ扉がある。そこから先が客席だ」
「ありがとうございます」
一行が中へ入ると、背後で重い扉が閉じた。
そこからは地下へ続く階段だった。
一段、また一段と下りるたびに、地上の音が遠ざかっていく。
代わりに聞こえてきたのは、地鳴りにも似た大勢の声だった。
「殺せぇぇぇ!!」
「やれ!」
「もっと血を見せろ!」
背嚢越しでも耳が痛くなるほどの歓声が響き渡る。
「…………」
セレナたちが黙った。
(これが……地下闘技場)
「レオン」
セレナが小さく声をかけてきた。
「ごめんね。もう少しだけ、このままでいて」
「あぅ」
やがて扉が開いた瞬間、歓声が一気に押し寄せてきた。
酒と煙草の匂い。それに汗と、どこか鉄臭いものまで混ざっている。
わしには何も見えない。
それでも。
ウィーンが「あそこまで醜い空間はなかなかない」と言った意味が、少しだけ分かった気がした。
「ガルドを探すよ」
「うん」
「わ~か~っ~た~」
一行は観客たちの間を進んでいった。
周囲からは絶えず賭け金を叫ぶ声が聞こえてくる。
誰かが傷つけば歓声が上がり、倒れれば笑い声が響く。そのたびに硬貨が動き、酒が酌み交わされる。
(……胸糞が悪いのう)
そんな中。
「さあさあ、お待ちかね! 次の決闘だ!」
ひときわ大きな声が闘技場に響いた。
司会らしき男の声に、観客たちが一斉に沸き立つ。
「そして今回の賞品は――こちら!」
何かが運び込まれてきたらしい。
その瞬間。
「……何、あれ」
セレナの声が変わった。
「……悪趣味なんてもんじゃないね」
マルタも低い声で呟く。
「ひ~ど~い~……」
(何があるんじゃ?)
わしが背嚢の中で身じろぎすると、セレナがすぐに気づいた。
「レオン。これは……見ない方がいい」
その一言で動くのをやめた。
代わりに、司会の男が嫌でも答えを教えてくれた。
「ご覧ください! オーク、ゴブリン、コボルト、リザードマン! その他、名も知らぬ亜人どもの骨を惜しげもなく組み上げた、特製スカルインテリア!」
(……なんじゃと)
客席から笑い声と口笛が上がる。
「欲しい奴はいるか!?」
「いるぞ!」
「俺に寄越せ!」
「気色悪ぃ!」
「だからいいんだろ!」
笑っている。
遺骨を前に。
ただの物を見るように。
「…………」
セレナは何も言わなかった。
ただ、背嚢を支える手に力が入ったことだけは分かった。
「さて! そんな逸品をどうしても欲しいという物好きが、一人いる!」
客席がさらに沸く。
「金で買うのか!?」
「違う!」
「盗む気か!?」
「違う違う!」
司会の男は、心底楽しそうに笑っていた。
「そいつは――己の身体で買うそうだ!」
ガチャリ、と金属の擦れる音が響いた。
「挑戦者――入場!」
歓声が爆発する。
そして。
「…………ガルド」
セレナが呟いた。
(やはり……!)
「でけえ!」
「リザードマンじゃねえか!」
「おい、あいつ武器を持ってねえぞ!」
観客の声に続いて、再び金属の音が鳴る。
「見ての通り! 挑戦者は武器なし! さらに両手には手錠! この条件で勝てば、賞品は奴のものだ!」
「ははははは!」
「馬鹿だ!」
「死ぬぞ!」
「なんで……」
セレナが呟いた。
「どうしてそこまでして……」
その疑問に答えたのは、司会でも観客でもなかった。
ガルド本人だった。
「……骨を返してもらう」
低く、よく通る声だった。
観客の笑い声など耳に入っていないように、ガルドは続ける。
「誰のものかは知らん。俺の同胞かどうかも分からん」
両手を拘束する鎖が鳴った。
「だが、死者を見世物にはさせん」
その言葉を聞いた途端。
セレナの息が止まった。
(……ガルド)
誰の骨かなど関係ない。
知っている者の骨だからでもない。
滅ぼされた故郷を持つあやつにとって、人の亡骸を笑いものにする行為そのものが許せないのだろう。
だから。
己の身体を賭けてまで、取り戻そうとしている。
「いいねえ! 言うじゃねえか!」
司会はそんなガルドの覚悟さえ見世物にするように笑い、反対側へ大きく腕を向けた。
「だが! こんな条件を呑んだ大馬鹿者の相手が、普通の戦士じゃ面白くない!」
ガラガラと重い扉が開く音がした。
直後。
「グルルルルル……」
低い唸り声が響く。
「対するは――ワーウルフだぁぁぁぁ!!」
歓声が爆発した。
「ワーウルフに五枚!」
「俺はリザードマンだ!」
「手錠してんだぞ! 無理に決まってる!」
客たちが好き勝手に叫ぶ中、ワーウルフの荒い息遣いだけが妙にはっきりと聞こえた。
「……勝てば」
低い声がした。
「本当に、俺を自由にするんだな?」
「ああ!」
司会の男が答える。
「そこの蜥蜴を倒せば、お前は自由だ!」
「グルルルル……!」
唸り声が変わった。
先ほどまでとは違う。
明確な殺気が混じっている。
(……こやつもか)
ワーウルフにとっても。
これは見世物ではない。
自由になるための戦い。
負けられない理由がある。
そして。
ガルドにも。
退けない理由がある。
互いに憎み合う理由などない二人を戦わせ。
その周囲では。
どちらが勝つか。
どちらが死ぬか。
金を賭けた者たちが笑っている。
(……ウィーン)
ようやく。
お主の言葉の意味が分かった。
ここは。
戦っている者たちが醜いのではない。
「殺せ!」
「早く始めろ!」
「血を見せろ!!」
醜いのは。
それを囲んで笑っている者たちなのじゃ。
「それでは――!」
司会が声を張り上げた。
武器を持たず、両手を拘束されたガルド。
自由を得るため、全身から殺気を放つワーウルフ。
二人が向かい合う。
「決闘――開始ッ!!」
「ガアアアアアアアアッ!!」
ワーウルフの咆哮が、地下闘技場を震わせた。




