表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

物.

   3/物.


 湯呑みは空っぽになっていた。湯気は立たない。

 僕も各務さんも、沈んだように口を閉じていた。机を挟んで向かい合って、僕は下を向く。下を向いているから分からないけど、きっと各務さんも俯いていると思う。

 見られちゃいけないもの。

 たぶん、あの白い箪笥にはそんなものがあるんだと思う。それがなんなのかは分からないし、分かりたくもない。でも各務さんが焦って女子高生の肩を掴んでしまうくらい、見られちゃいけないものがある。そう思ってしまう。

 すぐに手を離して、しゅんと謝るんだから、各務さんは別に悪い人じゃないと思う。今頃になって男と二人きりという危なさを感じたけど、この吹雪じゃ歩けそうにないだろうから、どうすることもできない。それに、きっと各務さんはなにもしてこない。単純に、吹雪がひどかったから家に招きいれただけ。そんな優しい人なんだと思う。

「お茶、淹れましょうか」

 各務さんが、ふいにそう言った。たぶん沈黙に耐えられなくて。

「いえ……いりません」

 顔を下ろしたまま、僕はそう返事した。

「そうですか……」

 また会話が途切れる。沈黙が六畳間に流れ込んできて、僕を埋めていく。なにか話題を拾い上げないと、息ができそうにない。

 くずかごは倒れたまま。直せばいいのに、各務さんは置き物のように動かない。僕が直すにも、箪笥にはもう近づきたくない。

 六畳間は沈黙で浸っていた。もう空気はあとわずか。どうにかしてこの沈黙を排出しないと、窒息してしまう。僕がどうにかして。

「あの……薬」

 でも僕は、言葉を選び間違えたようだ。すぐに気付いて口をつぐむ。気まずい雰囲気を、もっと重たくしてしまった。各務さんはなにも答えてはくれないし、僕ももうなにも言えない。

 そっと箪笥のほうに目を遣う。くずかごは倒れたまま。床には錠剤が散らばったまま。

 たぶん散らばっているのは、ハルシオンという睡眠薬だ。僕はこういった薬に、それなりに詳しい。よく使っているからだ。最近、眠れなくて。ハルシオンはすぐに効くし、朝起きたときは爽快感だけが残ってくれる。薬なんてそう見分けがつくものじゃないけれど、たぶん、あれはハルシオンだと思う。

「苗字」

 ふいに、各務さんが口を開けた。僕が箪笥のほうに視線を送っているから、気を逸らさせようとしているのかもしれない。

「よく『かがみ』だと読めましたね」

 二〇二号室の表札には「各務」とだけ、ふりがな無しで書かれていたのを思い出す。

「『かくむ』と読むんじゃないのかと思っていましたが」

 各務さんがそう付け加える。

 僕は顔を上げた。各務さんの顔は僕を向いていた。目は髪に隠れて見えない。

 沈黙はいつの間にか抜け出ていた。でも、僕を取り巻く不快感、窒息しそうな感じは、まだ少し残っている。

 その気持ちを、僕はそのまま声に出した。

「まるで今まで……自分の名前を知らなかったような言い方をするんですね」

 ぼさぼさの髪の後ろで、各務さんの顔が引きつったような気がした。

「あの、すいませんトイレ」

 各務さんはそう言って、逃げるように廊下へ出ていく。各務さんが廊下に出るときは毎回、各務さんは扉を閉めていた。それがまるで、扉の向こうを見られたくないと言っているようで。

 僕は立ち上がって、廊下と六畳間を挟む扉に近づいた。

 扉の向こうで、他の扉が開く音がした。閉まる音がしてから、僕は扉を開ける。

 蛍光灯が光っていて、廊下は暗くはなかった。コンロの上にやかんが置かれている。お茶を淹れるときに使ったのだろう。そこにお盆は見当たらない。

 反対側の壁の、引き戸に目を遣う。さっきの音は、戸を引く音ではなかった。そう自分を納得させて、そっと引き戸を開ける。鍵は開いていなかったようで、簡単に開いた。

 ぼさぼさ髪の男は、中にはいなかった。やっぱり、さっきの音は玄関の扉を開ける音だったんだ。

 だったら各務さんは、どこへ行ったというのだろう。引き戸の中は、トイレなのに。

 壁には鏡が掛けられていた。女性が使いそうな、楕円形の鏡だ。

 そしてトイレの左側には、まだ奥があるような仕切りがあった。たぶんこの仕切りは、シャワーカーテンだ。なんとなく、それに手をかけて、開ける。

 まず時計が目に映った。浴槽に入れられたそれは、可愛らしいキャラクターがプリントされていた。二十歳ぐらいの男性が使うようなものではない。

 それだけではなくて、スカートや、ブラウスや、女性ものの下着が、浴槽に押し込まれていた。鞄もあった。その鞄は――僕が通っている高校の指定鞄とそっくりだった。

 怖くなって、浴槽の中を漁る。するとすぐに、ぬめっとしたものが手に触れた。なめくじのような感覚。

 扉が開く音がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ