物.
3/物.
湯呑みは空っぽになっていた。湯気は立たない。
僕も各務さんも、沈んだように口を閉じていた。机を挟んで向かい合って、僕は下を向く。下を向いているから分からないけど、きっと各務さんも俯いていると思う。
見られちゃいけないもの。
たぶん、あの白い箪笥にはそんなものがあるんだと思う。それがなんなのかは分からないし、分かりたくもない。でも各務さんが焦って女子高生の肩を掴んでしまうくらい、見られちゃいけないものがある。そう思ってしまう。
すぐに手を離して、しゅんと謝るんだから、各務さんは別に悪い人じゃないと思う。今頃になって男と二人きりという危なさを感じたけど、この吹雪じゃ歩けそうにないだろうから、どうすることもできない。それに、きっと各務さんはなにもしてこない。単純に、吹雪がひどかったから家に招きいれただけ。そんな優しい人なんだと思う。
「お茶、淹れましょうか」
各務さんが、ふいにそう言った。たぶん沈黙に耐えられなくて。
「いえ……いりません」
顔を下ろしたまま、僕はそう返事した。
「そうですか……」
また会話が途切れる。沈黙が六畳間に流れ込んできて、僕を埋めていく。なにか話題を拾い上げないと、息ができそうにない。
くずかごは倒れたまま。直せばいいのに、各務さんは置き物のように動かない。僕が直すにも、箪笥にはもう近づきたくない。
六畳間は沈黙で浸っていた。もう空気はあとわずか。どうにかしてこの沈黙を排出しないと、窒息してしまう。僕がどうにかして。
「あの……薬」
でも僕は、言葉を選び間違えたようだ。すぐに気付いて口をつぐむ。気まずい雰囲気を、もっと重たくしてしまった。各務さんはなにも答えてはくれないし、僕ももうなにも言えない。
そっと箪笥のほうに目を遣う。くずかごは倒れたまま。床には錠剤が散らばったまま。
たぶん散らばっているのは、ハルシオンという睡眠薬だ。僕はこういった薬に、それなりに詳しい。よく使っているからだ。最近、眠れなくて。ハルシオンはすぐに効くし、朝起きたときは爽快感だけが残ってくれる。薬なんてそう見分けがつくものじゃないけれど、たぶん、あれはハルシオンだと思う。
「苗字」
ふいに、各務さんが口を開けた。僕が箪笥のほうに視線を送っているから、気を逸らさせようとしているのかもしれない。
「よく『かがみ』だと読めましたね」
二〇二号室の表札には「各務」とだけ、ふりがな無しで書かれていたのを思い出す。
「『かくむ』と読むんじゃないのかと思っていましたが」
各務さんがそう付け加える。
僕は顔を上げた。各務さんの顔は僕を向いていた。目は髪に隠れて見えない。
沈黙はいつの間にか抜け出ていた。でも、僕を取り巻く不快感、窒息しそうな感じは、まだ少し残っている。
その気持ちを、僕はそのまま声に出した。
「まるで今まで……自分の名前を知らなかったような言い方をするんですね」
ぼさぼさの髪の後ろで、各務さんの顔が引きつったような気がした。
「あの、すいませんトイレ」
各務さんはそう言って、逃げるように廊下へ出ていく。各務さんが廊下に出るときは毎回、各務さんは扉を閉めていた。それがまるで、扉の向こうを見られたくないと言っているようで。
僕は立ち上がって、廊下と六畳間を挟む扉に近づいた。
扉の向こうで、他の扉が開く音がした。閉まる音がしてから、僕は扉を開ける。
蛍光灯が光っていて、廊下は暗くはなかった。コンロの上にやかんが置かれている。お茶を淹れるときに使ったのだろう。そこにお盆は見当たらない。
反対側の壁の、引き戸に目を遣う。さっきの音は、戸を引く音ではなかった。そう自分を納得させて、そっと引き戸を開ける。鍵は開いていなかったようで、簡単に開いた。
ぼさぼさ髪の男は、中にはいなかった。やっぱり、さっきの音は玄関の扉を開ける音だったんだ。
だったら各務さんは、どこへ行ったというのだろう。引き戸の中は、トイレなのに。
壁には鏡が掛けられていた。女性が使いそうな、楕円形の鏡だ。
そしてトイレの左側には、まだ奥があるような仕切りがあった。たぶんこの仕切りは、シャワーカーテンだ。なんとなく、それに手をかけて、開ける。
まず時計が目に映った。浴槽に入れられたそれは、可愛らしいキャラクターがプリントされていた。二十歳ぐらいの男性が使うようなものではない。
それだけではなくて、スカートや、ブラウスや、女性ものの下着が、浴槽に押し込まれていた。鞄もあった。その鞄は――僕が通っている高校の指定鞄とそっくりだった。
怖くなって、浴槽の中を漁る。するとすぐに、ぬめっとしたものが手に触れた。なめくじのような感覚。
扉が開く音がした。




