十三章
翌日の夕方のことだった。
学校から帰った伊武が、椿家にある自分の部屋で怪我の様子を確認していたとき。
部屋がノックされた。
「Aです。希衣様、入ってもよろしいでしょうか」
「……どうぞ」
「失礼します――と、これは申し訳ない」
「いいの……気にしないで……」
伊武は、怪我の様子を見るために上半身裸だった。Aは形だけでも見ないようにするが、伊武は全く気にしていない。
伊武はシャツを羽織ると、Aを部屋の中に招き入れた。
元々、空き部屋であり、何も無い部屋だったのだが、伊武はここで暮らすことになっても家具はほとんど入れなかった。小さなクローゼットが一つと、パイプベッドだけ。それ以外は何もない。時計すらなかった。
「いい部屋ですね。撤収も困らないし、誰が住んでいるのかもわからない」
「……部屋を見に来たの?」
「アイスブレイク、というんでしたっけ? 世間話ですよ。しかし、歓迎されていないようなので本題に入りましょうか」
Aは懐から折りたたまれた紙を出して、伊武に渡した。
伊武が紙を広げると、プリントアウトされた地図に、Aの筆跡で時刻が記載されていた。
「……これは?」
「まだ、誰にも話していないのですが、今晩の天使降臨予測です。付近で異常な魔力増大を感知しました。これぐらい近い場所、近い時ならば、さすがに予測できる」
「アイシャは……新しい嘆きの涙……使ってないよね?」
「使っていません。入手できていませんから」
「じゃあ……自然降臨……」
「天木の所に在庫は無いようですから、そう考えられます。彼の言葉を信じれば、ですが」
「……信じられるの?」
「どちらでもいいんですよ。発言の責任は天木にあるのですから」
それで、伊武はAが何を考えているのかを何となく察した。
「天使遺骸を手に入れるチャンスです。どうしますか?」
「怪我、治ってないから……椿君に止められる……」
伊武は断るが、いつの間にか側にいたAが耳元で囁く。
「だから、私たち二人でやりませんか? と言っているのです」
伊武は耳に流れ込んでくる誘惑と嫌悪感に眉をしかめる。
「ばれたら……椿君が怒るから……」
「でしょうね。私もアイシャ様に怒られます。ばれたら、ですが」
「……無断で行こうと言うの?」
「そういうことです。元々、私と希衣様の二人で狩っているのですから、実行に問題はないでしょう。天使遺骸は一つでも多い方が良い。天使遺骸を持ち帰れば、椿様は怒ります。が、天使遺骸を持ち帰ったという事実は揺るがない」
「……焦っているの?」
「アイシャ様は慎重すぎる。少しでも早く、多くの天使遺骸が必要だというのに」
「わかった……なら……私のメリットは?」
「直巳様のためです。彼にとって、天使遺骸の数は、そのままつばめ様の寿命ですから」
「……そう……わかった、いきましょう」
直巳のため、という言葉を聞いて伊武が即答すると、Aがククッと笑った。
「椿様のためなら、何でもするのですね」
「そうよ……そのためなら……少しぐらいの無茶もするわ……怒られたっていい……あなただって……主人であるアイシャを思う気持ちは……あるのでしょう?」
Aは、「さて」と肩をすくめる。
「相手のためか、自分のためかなんて、はっきり区別できるものですかね」
Aの皮肉にも、伊武は表情一つ変えない。
「区別できないなら……綺麗な方を選べばいいのに……あなたは、汚いものが好きなのね」
伊武は、Aの頬をスッと撫でてから部屋を出ていった。
Aは一人、部屋に立ち尽くし、彼女の言葉と、撫でられた頬の余韻を味わっていた。
直巳は夕食を完成させ、食事をリビングに運ぶ。
今日は伊武とAが所用で遅くなるというので、いつもより量は少ない。
「直巳ー、お腹空いたー」
リビングに座ったまま、一切手伝いをしないアイシャが声をあげるが、直巳は無視する。
Bが手伝う気満々でうろうろしているのだが、料理を持たせると、当たり前のように転んでぶちまけるので、箸を運ぶ係に任命してやった。
Bが鼻息を荒くしながらつばめに箸を届けると、つばめは、ありがとうと言いながら、Bの頭を撫でた。
新聞を持ってくる犬があんな感じだったなと思いながら、直巳は配膳を終えた。
さて、食べようかと思ったところで、直巳の携帯が鳴る。
着信相手は加織神父だった。
みんなに先に食べていてくれと伝えると、直巳は廊下に移動して電話に出た。
「もしもし、椿ですが」
「ああ、椿君。今、お一人ですか?」
「ええ……周りに人はいませんが」
「そうですか。なら、よかった。実は今、あなたの家の前にいるのです。よかったら、直接会ってお話できませんか?」
「ええ、構いませんけど。じゃあ、すぐ行きます」
直巳は携帯を握りしめたまま、靴を履いて玄関から外に出る。
玄関から少し離れた所に、加織が立っていた。
加織は直巳を見つけると、慌てて走り寄ってきた。
「急に呼び出してしまって申し訳ありません。ただ、緊急事態だったので」
「緊急? どうしたんですか?」
加織は大げさに深呼吸すると、辺りを気にしながら小さな声で言った。
「つばめさんを元に戻す方法を見つけました」
「えっ……それは……本当、ですか?」
直巳が驚き、とまどいながら確認すると、加織はしっかりと頷いた。
「今すぐ、教会に来てください。それでつばめさんを治すことができます」
「俺が……ですか? 姉さんじゃなくて?」
「そうです。あなたが必要なんです。他の誰かにばれてはいけない。あなた一人だけで来てもらう必要があるのです。早く、時間がない。今を逃せば、次はないのです」
必死の形相で話す加織を見て、ただごとではないと直巳は理解する。
「わ、わかりました。行きます。でも、姉さんに伝えてから――」
直巳が家に引き返そうとすると、加織にガシッと腕を掴まれる。
「駄目です。誰にも、当人であるつばめさんにも伝えてはいけません。誰かに知られれば、それでもう駄目になってしまうのです」
直巳は一瞬だけ動きを止めて考えたが、加織の言うことに従うことにした。
「――わかりました。このまま教会へ行きます」
直巳が言うと、加織が安堵した表情になる。
「よかった……詳しいことを伝えられないので、信じてもらえなかったどうしようかと……それでは、いきましょう。時間がありません。走りますよ」
加織が走り出し、直巳もそれについていく。
しかし、走り始めてすぐに直巳は転んでしまう。
「椿君! 大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です……少し慌てて……あれ、携帯は……」
転んだ拍子に直巳の手から携帯電話が滑り落ちていた。直巳は転がっていた携帯を拾う。
「こ、壊れてないかな」
直巳が携帯の動作を確認しようとすると、加織がいらついた声を出した。
「後にしてください! 携帯電話とつばめさん、どちらが大切なんですか?」
「す、すいません! 大丈夫です! 早く教会に行きましょう! 加織神父!」
直巳は拾った携帯電話を握りしめたまま、加織の後に続いて走り出した。
直巳が加織と教会に向かっているころ。
伊武とAは椿家の外で落ち合い、Aの運転する車で予測地点に来ていた。
今回の場所は、わりと離れた場所にある山の中だった。
人気もなく、天使狩りをするには絶好の場所だった。
伊武は車を出て、空を仰ぎ見ている。
Aは車のボンネットに寄りかかり、煙草に火を付ける。
アイシャが煙草を嫌がるので、吸えるのはアイシャの行動範囲外だけだ。
冬の夜、お気に入りの女の子を乗せたドライブ後の煙草は格別だった。
二本目の煙草に火を付けた所で、空が動く。
「……きた」
「本物、みたいですね」
「顔の無い天使も……くるかもしれない……警戒しておいて……」
「わかりました。それでは、お気をつけて」
その言葉の直後、天使降臨が起きた。
衝撃が発生する。伊武はフリアエを抜き、地面に突き立てて衝撃を耐えた。
衝撃が収まると天使が実体化した。今回の天使は足がなく、顔は鳥だった。
伊武はフリアエを地面から抜くと、いつものように迷いなく天使に突っ込んでいく。
天使が奇跡の光を放つが、これもいつもどおり、伊武には通用しない。
そして、伊武は天使に肉薄し、右腕をたたき落とした。
天使が揺らぎ、再度、奇跡の光を放とうとするが、伊武の方が早かった。
フリアエを斬り上げて、肩から左腕を落とす。
「……ついで」
そのまま、袈裟斬りに振り下ろして、天使の体を叩き切ると、天使は消滅した。
(さて……)
伊武は構えを解かず、辺りを警戒した。いつもなら、この辺りで顔の無い天使が降臨するはずだった。
だが、そのような気配はない。
伊武は離れた場所にいるAと目が合う。Aは首を横に振った。いない、ということだ。
Aが周囲を気にしながら、伊武の元へと歩いてきた。
「きませんね」
「ええ……今日は……来ないの……かな」
「それか、この前ので絶滅したか」
「なら……いいんだけど……一応、警戒は続けて……」
Aに言うと、伊武は切り落とした天使遺骸を拾う。
結局、車に戻っても、顔の無い天使が現れる気配はなかった。
Aがため息をついてから、エンジンをかける。
「帰りましょうか」
「そうね……何もないなら……それでいい……」
Aが車を走らせて、椿家へと向かう。
「さて、なんと言い訳しましょうかね」
Aが運転しながら、バックミラー越しに伊武に話かける。
「言い訳は……しない……ちゃんと怒られた方が……いいから……」
「希衣様はいいでしょう。相手が椿様ですから」
「アイシャは……怖いの?」
「見た目と違って、なかなか怖いですよ」
「そう……頑張って……」
「他人事ですね。一緒に怒られてくださ――」
突然、車の全ての窓が真っ暗になった。
「くっ!」
Aが慌ててブレーキを踏もうとしたが――出来なかった。
「がっ……ぐふ……」
フロントガラスが割れ、Aの胸に剣が突き立っていた。
「A!」
伊武が叫んだ、次の瞬間、車内にびっしりと剣が突き刺さる。
箱に次々と剣を刺していく手品のように、フロント、リア、サイド、天井の全てから。
剣が付きだしてないのは足下ぐらいだった。
車はスピードを落とすことが出来ずに横転した。
伊武は薄れゆく意識の中で、事故の原因を知った。
車を囲うようにして、無数の顔の無い天使達が飛んでいた。




