十二章
直巳は部屋に戻ると、床に座り、アイシャの壷と天使遺骸を置いた。
いくら天使のものだと言っても、腕が転がっているのは良い気分ではない。
天使遺骸は膨大な魔力の塊だというが、どれくらいの魔力が入っているのだろうか。
これまで、何度も魔力暴走者から魔力を抜いてきたが、体内の魔力蓄積量に限界を感じることはなかった。だが、今回は覚悟した方がいいかもしれない。
吸収と放出は同時にできないので、魔力量が多ければ何度かにわける必要もあるだろう。
直巳は左手を天使遺骸に置くと、それだけで膨大な魔力の気配を感じた。左手の吸収を解放し、慎重に魔力の吸収を始める。様子を見ながら、少しずつ魔力の吸収量を増やしていく。すぐに、これまでに無いほどの吸収速度になった。
初めてから一分も経っていないが、すでに直巳が体験したことのない魔力量だった。これだけ吸収すれば、どんなに酷い魔力暴走者でも治っている。つばめを助けた時に使ったアイシャの壷だって、ここまではなかった。しかし、天使遺骸の魔力が尽きる気配がない。
そして、直巳は生まれて始めて体の魔力蓄積量に限界を感じ始めた。
体中が魔力という気体でいっぱいになってしまうような感覚。限界を感じるのは初めての経験だったが、体が理解した。水を飲み過ぎたら苦しい。風船に空気を入れすぎたら割れる。それと同じだ。
もし、このまま体内の魔力蓄積量の限界を超えてしまったら、自分も魔力暴走者と同じようになってしまうのだろうか。いや、魔力暴走者とは、体内にある魔力の絶対量が違う。これだけ大量の魔力が暴走すると、想像もできないような事態になってしまうかもしれない。
直巳は左手を天使遺骸から放した。冬だというのに全身から汗がこぼれ落ち、強い疲労感がある。神秘呼吸を使うのが、こんなに苦しいと思ったのは初めてだった。
呼吸が落ち着いてから、右手をアイシャの壷に入れた。あの嫌な感覚が襲ってきたが、前回よりも弱くなっている気がする。これなら問題ないだろう。
次は放出だ。放出は、吸収に比べるとずいぶん気が楽だった。対象物の魔力適性によって吸収する速度が変わるので、それに合わせて流し込めばいい。宝石や魔術具は適性が高いので、スポンジのようにどんどんと魔力を取り込んでいく。逆に、その辺にある適当なものに魔力を流し込もうとしても、時間はかかるし、ほとんど受け付けてくれない。
直巳は、アイシャの壷に放出を始めた。すぐに魔力適性が高いことがわかり、放出量を増やしていく。
これなら、すぐに終わるなと、そう思ったところで異変に気づいた。
直巳が放出する以上の速度で、壷は直巳から魔力を吸い取っていた。
無理矢理に魔力を吸い込まれていく感覚。
あっという間に魔力がなくなり、それでも壷は直巳から奪おうとする。
直巳は慌てて、壷から手を引き抜いた。
あのまま手を入れていれば、奪われるのは体力、意識――やがては命か。
ふらつきを感じる。少し、壷に食われたのかもしれない。
直巳は、置いてある天使遺骸と壷を見る。
どちらも、これまで出会ったことのない、恐ろしいものだった。
左手を天使遺骸に置く。まだまだ魔力が残っているようだった。
後、何回これを繰り返せば終わるのだろうか。
正直、神秘呼吸を使うだけなら簡単な仕事だと思っていたが、大間違いだった。
吸収の量を間違えれば魔力暴走。放出の量を間違えれば命を食われる。
アイシャは放出の危険性について、何も言っていなかった。恐らく、放出にここまでの危険性が伴うことを、彼女も知らなかったのだろう。
それでも、これは自分にしか出来ないことなのだと、直巳は自分を鼓舞して、再び吸収と放出の作業を繰り返した。
途中、何度かの休憩を挟みながら、これでもかと神秘呼吸を使い倒す。
五回目の吸収をしている時、天使遺骸が消滅した。伊武が天使を狩った時と同じだった。
残った魔力を慎重にアイシャの壷に魔力を注ぎ込み、作業は終わった。
作業を開始してから、三時間が経過していた。
直巳は仰向けになって床に倒れ込む。顔の隣りにアイシャの壷があった。
散々、魔力を注ぎ込んだというのに、アイシャの壷は限界の片鱗すら見せなかった。この小さな壷に、どれだけの魔力が入ると言うのだろう。いくつの天使遺骸を使えば、この壷はいっぱいになるのだろう。
直巳が壷を眺めながら横になっていると、部屋のドアがノックされた。きちんとした、大人しいノック。
「はい、どうぞ」
直巳が床に倒れたまま返事をすると、部屋のドアが開いた。
入ってきたのは伊武だった。
「こんばんは……って……椿君、どうしたの?」
汗だくで倒れている直巳を見て、伊武が心配そうに側に寄る。
直巳が神秘呼吸での魔力移動を行なって疲労したのだと伝えると、伊武は、唇を噛みしめて悲しそうな、悔しそうな顔をした。
「椿君……アイシャのせいで、こんなになって……かわいそう……頑張ったんだね……やり遂げたんだね……偉いね……」
伊武が有無を言わさずに直巳の頭を持ち上げ、膝枕をした。そのままポケットからハンカチを取り出し、直巳の汗をぬぐい始める。
直巳は、神秘呼吸を使う苦労をみんなにわかってもらいたいとは思っていた。認めてくれたら嬉しいとも思っていた。
しかし、自分のことではあるが、伊武はちょっと自分を甘やかしすぎだと、直巳は思う。
とはいえ、膝枕も汗をふいてもらうのも気持ちがよいし、目の前に伊武の大きな胸があるというのは大変に良い光景だった。
(しばらく、このままでいいかな)
直巳は、また一歩、駄目男に近づいていった。
しばらくは伊武に甘えていた直巳だったが、伊武にお姫様抱っこをされた所で我に返り、下ろしてもらった。ちなみに、喉が渇かないかと聞かれたので、渇いたと答えたら、突然、抱きかかえられた。そのまま台所まで連れていくつもりだったのだろう。
下ろしてもらい、冷静になった直巳は咳払いをしてから伊武に向き合う。
「ん、んんっ……で、伊武は俺に用があったのかな?」
「用……というか……アイシャに言われて、神秘呼吸使ってるのかなって思って……なかなか部屋から出てこなかったから……心配になって……」
「ああ、そういうことか。さっきも言ったように、手こずったけど、ちゃんと終わったよ」
「うん……よかった……」
伊武は直巳を心配してくれていたようだが、そういう伊武の体には、ところどころ包帯が見える。先ほど、顔の無い天使にやられた傷だ。
「伊武こそ、怪我は大丈夫なの?」
「うん……激しく動かなければ大丈夫……完全に治るまでは……少しかかるけど……」
伊武は怪我が治りやすい体質なのだという。だが、この速度は体質というレベルではない。
これもきっと、伊武の天使狩りの力に関係しているのだろう。
直巳が傷口をじっと見ていると、伊武がそれに気づいた。
「そんな心配しなくても……大丈夫……私の体は……特別だから……」
「特別?」
「うん……天使狩りをするために……強化されてるの……昔……ママとか……反天使同盟の人達が……そうしてくれたの……だから……大丈夫……」
「強化って……まだ、小さいころにか?」
「うん……五歳ぐらいの時かな……」
「五歳か……俺が神秘呼吸を使い始めたのも、五歳の時だったな」
「そうなんだ……同じだね」
同じ年で魔術能力を使い始めたことがそんなに嬉しかったのか、伊武が笑顔になる。
とはいえ、伊武と直巳ではやっていることに大分違いがある。直巳がやっていたのは魔力暴走者の治療だが、伊武は天使狩りだ。
(初めて天使を狩ったのは何歳の時だった? これまで狩ってきた天使の数は?)
そんな質問が直巳の頭をよぎったが、口には出せなかった。
代わりに、一つだけ伊武に質問をした。
「伊武は、何のために天使狩りをしているの?」
その質問を聞くと、伊武は困ったような顔をして、黙って立ち上がる。
直巳が、気に障る質問をしたかと慌てたが、伊武は部屋から出る寸前に、直巳の方を向いて言った。
「椿君のため……だよ」
伊武は笑顔だった。
全てを包み込むような、捕らえて逃がさないというような。
そんな、笑顔だった。
直巳が神秘呼吸を使っていた、同じころ。
アイシャは高宮家の自室にいた。
豪奢なアンティークチェアに座り、背後にはAとBが控えている。
アイシャは振り向きもせず、Aに語りかける。
「A、あなたも顔の無い天使と戦ったの?」
「はい。許可されてる範囲内ですので、ご安心を」
「そう。十分に注意してね。あなたにいなくなられると困るのだから」
「大丈夫ですよ。私は、あなたの側にいます」
Aが背後からアイシャの体に手を回して抱きしめる。
Bも座っているアイシャの膝にまとわりついた。
「やめて」
アイシャの言葉を無視し、AとBは蔦のようにアイシャに絡みつく。
「アイシャ――小さくて美しい――かわいそうなアイシャ――」
Aは、アイシャの髪を手で梳かす。一束、手に取ると、匂いを嗅いだ。
「やめてと言っているの」
「私たちは、ずっとあなたの側にいますよ――ずっと――ずっと――離しません」
アイシャは目を閉じる。
直巳に抱きかかえられた時の心地よさを、何度も思い出していた。




