九章
バーベキューが終わってから、ろくに眠りもせずに直巳は学校へと行った。
授業中、強烈な睡魔が襲ってきたが、優等生の直巳は居眠りせずに乗り切った。
伊武は一日や二日寝ないでも大丈夫らしく、まったくいつもどおりだった。
学校が終わり、伊武と一緒に帰宅している途中、直巳の携帯が鳴った。見慣れぬ番号だったが出てみると、相手は思ってもいない人物だった。
「もしもし。椿直巳君の携帯ですか?」
「そうですが、あなたは?」
「私は加織という天使教会の神父です。わかりますでしょうか?」
「加織神父?」
直巳が口に出すと、伊武がピクリと反応した。直巳は携帯を抑えて、「話してみる」と伊武に伝えた。
「わかりますよ、加織さん」
「ああ、よかった。いや、あなたが天使教会と距離を置いていることは知っているので、連絡するのはどうかと思ったのですが、どうしてもあなたに伝えておきたいことがありまして」
天使教会に残れなどという、勧誘の電話ではないようだった。直巳は少しだけ警戒を解く。
「なんでしょう。聞かせてください」
「実は、秋川神父のことなのですが、昨晩から姿が見えないのです。連絡も取れません。椿君は、なにか知りませんか?」
「いえ、思い当たることはありませんが……」
「そうですか……実は、先日から秋川神父の様子がおかしかったのですが、今日、魔力暴走患者がやってきて、患者を見た瞬間に逃げ出してしまったのです」
直巳が秋川に電話で別れを告げた時も、相当に焦っていた。直巳がいなくなってからの解決方法も見つからないうちに魔力暴走患者がきてしまい、治療も出来ず、嘘でしたとも言えず、逃げ出してしまったのだろう。
「そうでしたか……もし、連絡があれば加織さんにお伝えします」
「助かります。ただ、電話したのは探して欲しいということではなくて、椿君に注意してくださいと言っておきたくて」
「注意ですか?」
「ええ。秋川神父は姿を消した時もそうでしたが……その、先日から昼も夜もずっと酔っていたのです。それで、よくうわごとであなたの名前を言っていました。その様子が、なんと言いますか……その……不気味で……」
加織は言葉を濁した。余程の状態だったのだろう。
「教会に行かないと言ったからですかね」
加織はどこまで知っているのだろうか。それを探るためにも、とぼけて答えて見た。
「秋川神父はあなたのことを気に入っているようでしたから。ショックだったのかもしれませんね。だからと言って、酔っ払った挙げ句の職務放棄が許されるわけもありません」
直巳は心の中でほっとため息をついた。この様子なら、秋川は加織に何も話してはいない。ここまで追い詰められても、自分の面子が大事だったのだろう。
天使狩りに手を染めた今、神秘呼吸を知る者は少ない方がいい。相手が天使教会ならなおさらだ。
「とにかく、秋川神父に気をつけてください。もしかしたら、あなたの前に姿を現すかもしれませんから。もし、そうなったらすぐに連絡をください。自分で解決しようとせず、すぐに連絡をお願いします。」
「わかりました。警察より先に加織さんに連絡しますよ」
「お察しいただけて助かります……お恥ずかしいことです」
直巳の気遣いに、加織は申し訳なさそうに答えた。
「一応、教会で仕事をしていましたから。そういうのはわかります」
「よろしくお願いします。しばらくは、私が代行神父をやっておりますので、何か用事があれば私にご連絡ください」
「わかりました。あの、最後に一つ良いですか?」
「はい、なんでしょう」
「魔力暴走の患者は……どうなりましたか?」
「ああ、それならば天使教会の本部にお願いしました。本当は治療を推奨していないのですけれどね。私も一応、本部の人間ですから、その辺はやり方があるんです――内緒ですよ?」
「もちろん。でも、なんとかなるならよかった」
「椿君は優しいんですね。天使教会を離れたとはいえ、その心は持っていてくださいね。あなたに天使様のご加護がありますように。それでは」
お決まりの文句を言って、加織は電話を切った。
秋川のことは気になるが、今は何よりも、魔力暴走患者が治療されるということに直巳はほっとしていた。天使教会を離れる時、それだけが心残りだったのだ。
電話を切った後、伊武に内容を聞かれたので、そのまま伝えた。
伊武は何かを考えた後、「私が守るから」とだけ言った。
同じころ、アイシャは天木のマンションにいた。直巳が通っていたのと同じ部屋で、直巳に出していたものと同じお茶を飲んでいる。
「天木、「嘆きの涙」よかったわよ」
「そうですか。それは何より」
「で、新しい、「嘆きの涙」が欲しいのだけど、ある?」
「アイシャ、あれはヴィンテージワインのようなものなんですよ。今から新たに作ることはできないから、世界中に存在する数が決まっている。誰かが使えば減ってしまう。そういう貴重なものなんです」
天木が大げさに、「嘆きの涙」の貴重さを説くが、アイシャは聞き流していた。
「で? その貴重なものがあるの? ないの? 前より高い値段ならあるの?」
アイシャがお茶を飲みながら言うと、天木は、「まいったなー」と言いながら頭をかいた。
「ま、一個だけあるんですが……貴重なものなので……」
「構わないわ。いくらなの?」
「本当は、金銭よりも貴重なものとトレードしたいんですけどね……これぐらいで」
天木はメモ帳に金額を殴り書きすると、アイシャの方へ寄越した。
アイシャはメモ帳を見て、怪訝な顔をする。
「どうしました? アイシャ。高すぎますか?」
「逆よ。安すぎる。金銭で取引したくないのに、この値段でいいの?」
その言葉を聞いて、天木は待ってましたとばかりに笑顔を浮かべる。
「わかっていただけてよかった。そう、僕はお金が欲しいんじゃない」
「ふうん……お金じゃないなら、何をお望み?」
「貸しにしておいてもらえますか?」
「貸し? 怖いわね。白紙の小切手にサインするほどバカじゃないわよ」
「いずれ、僕の書く金額にたいして首を縦に振るかは、あなたが決めればいい。最悪、あなたは払わないで踏み倒してもいいわけです」
「いずれ……ね。あなた、何かやましいことでもあるの?」
アイシャが睨むと、天木は大慌てで手を振って否定した。
「とんでもない! 全員に貸しを作っておく。商売人のこずるい知恵ですよ」
アイシャは五回、爪で机を叩いてから、ため息をついた。
「――いいわ。何にしてもこれは欲しいもの。貸しにしといてあげる」
「ありがとうございます。これで枕を高くして眠れるというものです」
「いい保険に入ったわね。命一つと比べたら安いわよ」
「そうなると信じたいですね」
「情報はどう? 何かあれば買うわよ」
「アイシャの情報を他の人に売ってもよいので?」
「私には情報を売りなさい。私の情報は黙ってなさい」
アイシャの勝手な物言いを、天木は笑って誤魔化した。
「そういうわけにはいかないので、何もかも黙ってることにしてるんですよ。現代の商売は顧客情報の管理が重要なんです」
「ふうん……ま、それならそれでいいわ。ペラペラ喋るやつよりはましかもね」
「自分には喋れっていったくせに」
「私は自分がよければいいの。じゃ、支払いをしましょう」
アイシャはAに、金額の書いてあるメモを渡す。
「そのとおりにお支払いして」
アイシャが言うと、Aは持っていたトランクを開けて、札束を取り出し始めた。
「相変わらずねぎらないんですねえ。アイシャは」
「ねぎる客とねぎらない客、天木はどちらが好き?」
「そりゃ、もう。ねぎらないお客様は大好きですよ」
その間にも、Aは札束を天木の目の前に積み上げていく。
天木は金額に間違いないことを確認すると、「嘆きの涙」の小瓶をアイシャに渡した。
それから、アイシャがAに目配せすると、Aはさらに三つ札束を天木の前に積んだ。
「これは?」
「色、付けたのよ。受け取ってちょうだい」
「……ねぎらないお客様は好きですが、上乗せするお客様は怖いですねえ……お望みは?」
「別に。ただ、「嘆きの涙」が入荷したら、最優先で回して欲しいだけ」
アイシャが上品に微笑むと、天木は苦笑いした。
「わかりました。入荷したら、そうします。あまり期待はしないでください。何せ――」
「ヴィンテージワインのように貴重なのよね。ところで天木。最近は新しいワインを短時間でヴィンテージと同じように熟成させる研究が進んでるって、知ってる?」
「へえ、そうなんですか。それは面白いですね」
「ええ。もしそんなことができたら、ヴィンテージワインがたくさん作れるものね。そうなったら、素敵だと思わない? いえ、もしかしたら、実はもうあるんだけど、ヴィンテージワインの価値が落ちちゃうから、公表してないだけなのかも」
アイシャの言いたいことを察し、天木が苦笑いをする。
「アイシャ。それは考えすぎですよ。あまり虐めないでください」
「もし、そうだったらいいのにねっていう話よ。それじゃあ、またね」
それから数日の間は、何事もなく平和だった。
アイシャは、「嘆きの涙」を手に入れたそうだが、目立たないように少し時間を空けてから行なうということになった。
先日、伊武が手に入れた天使遺骸は、伊武とアイシャが一つずつ持っていった。
伊武は、「私の取り分」と言うだけで、売るのか使うのかなどは言わなかったし、それは誰も聞こうとはしなかった。取り分をどう使うかは自由だろう。
アイシャは、今回の分はつばめの治療に使うと言ってくれた。まだ余裕があるので、劣化しないように保管しておいてくれるらしい。
自分の魔力を溜めなくていいのか、と聞くと、急ぎでもないから余裕が出来てからで良いと言ってくれた。
久しぶりに、心配事の少ない日々を過ごすことができ、直巳もここ数日の変化により疲労した心と体を、ゆっくりと休めることが出来た。
もしかしたら、アイシャは休養のために日を開けたのかなと、直巳は思っていた。
そして、何事もなく穏やかに終わった、ある日の夜のこと。
直巳は寝る前に何か飲もうと、台所へ向かう途中だった。
アイシャに貸してある部屋の前で、何気なく足を止める。
気まぐれで、アイシャがいるかどうか、軽くドアをノックした。
「どうぞ」
中から、アイシャの声がした。
もう日にちも変わった後だというのに、まだ起きていたのかと驚きながらも扉を開ける。
アイシャは部屋の電気もつけず、ベッドに座って窓から空を見ていた。
「こんばんは、直巳」
アイシャは薄く微笑んで直巳に声をかけると、また空を見た。
月明かりに照らされたアイシャの姿、表情は、直巳の知る誰よりも大人びていた。
(彼女は、本当にアイシャなのだろうか)
夜の闇にぼんやりと浮かぶ、いつもと違う雰囲気のアイシャに直巳は心を奪われた。
細く、小さな彼女は本当に綺麗で、か弱く、悲しく、見ているだけで涙が出そうだった。
「どうしたの? 暇ならこちらへ来ない?」
アイシャが、自分の座っているベッドをポンポンと叩き、直巳を呼んだ。
言われるがまま、直巳はベッドに座ると、アイシャがもたれかかってきた。丁度、直巳がアイシャの座椅子のような格好になる。
それがあまりにも自然だったため、とがめることも茶化すこともしなかった。
そのまま、二人で黙って夜空を眺めた。
「アイシャは、まだ寝ないのか?」
話す直巳も聞くアイシャも、星空を見たままだった。
「眠ると年を取るのよ。だから、眠れないの――と、言ったら、あなた信じる?」
眠らないのではなく、眠れないのだとアイシャは言う。
「何があっても驚きはしないけど」
「冗談よ。夜更かしなだけ。こうして、静かに過ごせるのは夜だけだもの」
「子どものくせに」
アイシャが声を出さずに笑った。その振動が背中越しに直巳に伝わる。
「夜は好きなのだけどね。ずっと一人で過ごしていると、たまに寂しくなるわ」
アイシャは直巳に寄りかかり、体重を預けた。
「でも、今日は直巳が側に居るわ――直巳は、温かいのね」
直巳はアイシャに手を回し、軽く抱きしめた。
甘えてきた子どもを抱きしめている感覚が半分。半分だけだった。
「色々あったけど、直巳は大丈夫?」
「大丈夫だよ。少しは休めたしね」
「それはよかった。続けられそう?」
「ああ、続けるよ。じゃないと、姉さんが助からない」
「そうね。つばめのために頑張りなさい」
それで、また沈黙が訪れた。
いつの間にか、直巳の手にアイシャの手が重ねられている。
お互いの体温を感じながら、暗闇の中で、ただ夜空を眺める。
直巳がアイシャの髪を撫でた。長く、美しい金髪は何も引っかかるものがなく、さらさらと指がとおった。アイシャは何も言わず、直巳に身を預けていた。
「直巳は」
アイシャが小さな声で、囁くように語りかける。
「直巳はいくつぐらいの夜空を覚えているのかしら」
「夜空か」
直巳も小さな声で答えた。アイシャ以外に聞こえないよう、小さな声で。
「昔、母さんがいなくなった日に、姉さんが俺を抱きしめて寝てくれた。結局、朝まで眠れなかった。その時、窓から見えた夜空は今でも覚えてる」
アイシャは、「そう」とだけ言った。
それで、話は終わった。
気がつくと、直巳は眠っていた。
朝起きると、アイシャはいなかった。
まるで、最初から一人で眠っていたかのようだった。




