十章
今、椿家では三人が暮らしている。直巳とつばめ、それから伊武だ。
伊武は足の悪いつばめに代わり家事もやってくれるので、直巳も助かっている。
高宮家の三人は好き勝手にやってくる。一緒に食事をすることはよくあるし、それは賑やかだから別にいいのだが、風呂に入ったり寝ていったりもする。必要な家具などは知らない間に運び込まれていた。
Aは料理以外の家事は一切やらないので、伊武の負担は軽くならない。アイシャはもちろん何もしないし、Bはもはや、つばめのペットに近い。
その日は伊武が夕食を作ることになっており、買い物に出ていた。
リビングには直巳とつばめだけがおり、久しぶりに姉弟団らんの時間を過ごしている。そんな時だった。
玄関のチャイムが鳴り、来客を告げる。
直巳はいつもどおり、宅配便か何かだろうと思って扉を開けた。
そこに立っていたのは、秋川だった。
「あ、秋川――」
相手が秋川だとわかった瞬間から、直巳は一瞬で秋川の全身を観察した。神父の格好をしているが、服はボロボロで、汗とアンモニアとアルコールの乾いた匂いがする。頬はこけて、目の下にはくっきりとクマができていた。
これだけでも異様なのだが、秋川の目が一番恐ろしかった。瞳孔が開いており、目は爛々と輝いている。視点も定まっていない。こんな目をした人間を、直巳は見たことがなかった。
秋川は、じっと直巳を見つめたまま動かなかった。
生理的な気持ち悪さを感じた直巳は、大声を出して追い返そうと思ったが、話が通じるとも思えないし、リビングにはつばめがいるので、気づかれたくもなかった。
「秋川さん、外へ」
直巳は靴をつっかけると、秋川の腕を引っ張って外に連れ出した。秋川は黙って直巳のされるがままになっていた。
玄関を出て、家から少し離れた道に秋川を連れ込み、改めて対峙した。
「は……あはは……」
こちらを見ながら笑う秋川に、直巳はぞっとした。
何かしてくる様子もないが、話も通じなそうだ。
このまま放っておく、警察に電話する。そうだ、加織神父に電話をしよう。彼ならば騒ぎにすることもなく、穏便に片付けてくれるだろう。
そう思って、直巳が携帯電話を取り出した瞬間――秋川が抱きついてきた。
「ひっ――」
直巳が思わず悲鳴をあげると、秋川はそのまま直巳を押し倒し、口を手で塞いできた。
「やっぱり! やっぱり君が僕の天使だ! ひまわりの空の向こうからやってきた君には八枚の羽根が生えている! 僕にだけ見えるんだ! 僕だけの天使だ! 天使さま!」
秋川がわけのわからないことをわめきながら、直巳の胸に顔をこすりつけてくる。
あまりの気持ち悪さに、直巳は身動きすら取れなかった。
「君を見た時に花が咲いたんだよ! 銀の万華鏡の花が君だ! 僕のだ! 僕のものだ!」
秋川はずっとわめていたが、突然、ピタリと黙り込んだ。
「……間違っていたんだ……花は摘んで花瓶にいれるんだよ……でも爪がないんだ……爪がないから花も摘めないし、腕の中にいる白い蜘蛛に食べられて、そこから腐っていくんだ……だから、僕がちゃんと守らないといけないんだ……」
秋川はポケットからナイフを取り出し、振りかぶる。
「僕のだああぁぁぁ!」
絶叫しながら、ナイフを直巳の肩めがけて振り下ろした。
「ッッッ!!」
紙一重で体をひねり、直巳はナイフをかわした。
ナイフがアスファルトにぶつかり、音を立てて折れた。
秋川は、本気で直巳を刺そうとしてた。
(殺される!)
直巳は必死にもがくが、馬乗りになって押さえつけてくる秋川の力は異常に強く、抜け出すことができなかった。
秋川はナイフが折れているのも構わず、もう一度振りかぶって、直巳の顔を狙ってきた。
折れてはいるが、当たれば、当然ただでは済まないだろう。そして、きっとこれだけで終わるはずはない。秋川は正気を失っており、このままだと殺されるかもしれない。
またも肩をひねってかわそうとするが、今度は秋川に肩を押さえられていた。
(駄目だ――かわせない――)
直巳が目をつむり、覚悟を決めたその時だった。
「神父、それは私が先に目をつけていたのですが」
秋川の後頭部で、ガラスと液体がはじけ飛んだ。
「があァっ!」
妙なうめき声をあげて、秋川が転がる。その隙に、直巳は秋川の下から逃げ出した。
「直巳様。あなたはおかしいのに好かれやすいのですから、注意しないと」
「――A」
助けてくれたのはAだった。Aの手には、首の部分だけになったウイスキーの瓶が握られている。これで秋川の頭を叩いたのだろう。
「おー……なお……だいじょぶ?」
Aの後ろから、Bがちょこちょこと駆けよってきて、直巳を心配する。
「うん……ありがとう……大丈夫」
Bはクンクンと直巳の匂いを嗅ぐと、うっ、と顔をしかめた。秋川の匂いが直巳の服にもうつってしまったのだろう。
その秋川は、呻きながら立ち上がり、再び直巳を見つめていた。後頭部から酒なのか血液なのかわからない、不気味な液体を垂れ流している。
「……腕は僕のものに……僕はその腕で椿君と結ばれる……ううひひひ……」
秋川が、またもわけのわからないことを言いながら、よろよろと直巳に近寄ってきた。
直巳が拳を構えると、Bが秋川の前に立ちふさがった。
「おや、Bがやりますか?」
Aが言うと、Bはこくんとうなずいた。
「そうですか。なら、お任せします。もう酒瓶もないですし、触りたくもないので」
「い、いや! 待てよ! Bじゃ危ないだろ! 俺がやるって!」
まだ幼い少女であるBに危ない真似はさせられない。直巳はやる気だったが、Aは「大丈夫ですよ」と言いながら、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。
「あなたに怪我でもされたら、私がアイシャに怒られるんですよ。いいから、そこで黙ってみていてください。Bだって高宮です。ただの駄目メイドじゃないんですから」
Aが煙草を吸い、たっぷりと煙を吐く。
直巳がどうしようかと思いBを見ると、Bは何かをぶつぶつとつぶやいていた。
「ゲロゲロ……にゃーにゃー……」
内容はいつもどおりだが、声は落ち着いており、明らかに秋川に向けられている。
「がああぁぁ!!」
突然、秋川が胸をかきむしって倒れた。
地面を転げ回り、服が破けて皮膚が裂けても、まだ胸をかきむしっている。
Bからは、まだ蛙と猫の鳴き声が聞こえている。
「ど、どうしたんだ……?」
秋川があまりにも苦しそうで、直巳が思わ心配になってしまうほどだった。
「呪いですよ。その神父は今、Bに呪われているんです。B、殺さないように」
Aに言われると、Bは黙ってうなずいた。
「呪い……これも……魔術なのか?」
「魔術より、もっと純粋な呪いです。今、神父は胸をやられているようですが、もっと酷いこともできますよ。見たいですか?」
Aはいつもの笑顔で気軽に聞いてくる。直巳はもちろん断った。
「今、加織神父を呼ぶから。それまで足止めしてくれればいいよ」
「加織……天使教会の神父ですか?」
「ああ」
「なら、ほどほどにしておきましょう。B、気絶させて」
Bはうなずくと、蛙の人形の口を何度かパクパクと動かした。
秋川は一際大きく悶えると、そのまま泡を吹いて気絶してしまった。
「し、死んでないよな?」
「痛みで気絶しただけですよ。意識が混濁していて、痛みに鈍いみたいでしたから、死ぬギリギリまで追い詰めてあります」
「そ、そうか。縛っておいた方がいいかな?」
直巳が秋川の元に寄ろうとすると、Bはプルプルと首を横に振った。
「だいじょぶ……起きたら……また、うーってなる」
「それはつまり……」
「死ぬまで、死なない程度の苦しみを味わい続けるということです。それも楽しそうですが、天使教会に調べられたら面倒だ。B、呪いは全部解いてあげなさい」
「んー……なお、やなことされたのに」
Bが頬を膨らませて不満そうにするが、また何やら人形の口をパクパクと動かすと、秋川の体がビクンとはねた。
「うーっ、てなるの……とった」
Bはまだ、ブスーっと頬を膨らませていたので、直巳は身を屈めてBの頭を撫でてやった。
「B、ありがとう。おかげで助かったよ」
「……んふ」
Bが満足そうに鼻息を吹くと、人形でガブガブと直巳にじゃれついてくる。ちょっと痛かったが、助けてくれたお礼の意味もあり、しばらく好きにさせた。
それから、加織に電話をして経緯を話した。AとBのことはふせ、買い物帰りに襲われたので酒瓶で殴った、ということにした。
加織はすぐに車で駆けつけてくる。AとBはいつの間にか姿を消していた。
「椿君! 遅くなりました! 大丈夫ですか!?」
加織が車を降りるや否や、直巳の元へ駆けつけてくる。
怪我はしていないということを伝えると、加織は心底ほっとした表情を見せた。
そして、転がっている秋川を見ると、彼の体を一通り調べてから、手足を縛って車の後部座席に放り込んだ。
「本当、申し訳ありませんでした。天使教会の神父が人に迷惑をかけるなど……しかも……酒に酔って……いえ、隠しても仕方ありません……きっと、悪い薬物まで……」
加織は涙を流しながら直巳に頭を下げた。
直巳は不思議と、秋川にたいして怒りを感じていなかった。
加織の涙もあるが、Bに呪われて悶え苦しむ様子を見たら、これ以上、仕返しする気にもなれなかった。
「起きてしまったことですから、どうこうはいいません。ただ、二度とこういうことがないようにだけしてください」
「もちろんです。秋川神父には――もう、神父の称号は剥奪されますが――遠くの場所で療養してもらうことになると思います」
「遠く、ですか」
「ええ。自力では戻ってこられないほど遠くです。安心してください」
天使教会は世界中に存在する。秋川は恐らく、海外のどこかに送られるのだろうと直巳は思った。警察やマスコミに気づかれないよう、療養という名目で幽閉されるのだ。
「わかりました。お任せします」
「はい。間違いなく。それにしても、椿君には大変なご迷惑をおかけしました。せめてもの償いとして、つばめさんの治療の協力をさせてください」
「え……いいんですか?」
「はい。私にはそれぐらいしかできませんから。本部には内緒ですが、秘術も含めて解決方法がないか、調べてみます。何かわかれば連絡します」
「あ、ありがとうございます! 本当に、すごく……すごく助かります」
直巳は秋川にされたことも忘れ、心からの感謝の気持ちを伝えた。
加織は逆に恐縮してしまい、苦笑いを浮かべた。
「尽力します。ただ、誰にも内緒にしてください。その、本当に公開されていない情報まで調べてみるつもりなので。つばめさんや、親しい人達にも絶対内緒です。それだけは必ず守ってください。もし、情報が漏れて本部に気づかれたら、秋川神父のように、つばめさんを狙ってくるかもしれない」
真剣な表情で言う加織に、直巳もしっかりとうなずいて返事をした。
「わかりました。絶対、内緒にします」
直巳の返事を確認すると、加織は直巳と握手をしてから車に乗って帰っていった。
去って行く車を見送る。
直巳は秋川と出会ってからのことを思い出していた。
なんだかんだいって、直巳が神秘呼吸を使って不自由なく生活できたのは、秋川が用意してくれた環境のおかげだった。インチキの手品みたいな方法だったけど。
少し前までは、秋川と一緒に天使教会で生きていくのが当然だと思っていたのだ。
せめて、どこか静かな場所で穏やかな生活を送ってくれればいいなと、直巳は思った。
感謝しています。
でも、あなたのことはずっと嫌いでした。
さようなら、秋川神父。
「椿君っ! 早く服を脱いで!」
帰宅して玄関の扉を開けた途端、伊武が飛びかかってきて服を向かれた。
玄関に入って十秒でパンツ一枚にされるとは考えてもみなかった。
どうも伊武は、先に帰宅していたAから一部始終を聞いていたようで、話から想像力を働かせた結果、洋服に秋川の汗や匂いがべったりとくっついていると看破し、「椿君が汚れちゃう!」と発狂していたらしい。
「服は私がちゃんと手洗いするから! 椿君は早くお風呂に入って! 体を清めてっ!」
鬼気迫る表情の伊武に押され、直巳は浴室に向かった。
浴室のドアを開けた瞬間、全裸の女性と目が合った。
「あ――」
妙に細い体。少し浮いているアバラ骨。
白い肌――青白いと言っていい。痩せているのと合わせて、不健康な色気があった。
女性の身体を見たのだから、興奮もするし焦るはずなのだが――彼女と目が合った瞬間、全て吹き飛んだ。
彼女は完全に全裸だった――服も下着も――眼帯も外していた。
初めてみるAの左目。
白目の中を何か、絵のようなものがヌルヌルと動いていた。
蛇。羽根の生えた蛇。白目の中を、タトゥーのような小さい蛇が動き回っている。
直巳が、その目に心を奪われていると、女性は目をそらさず、裸のまま近寄ってきた。
そして、直巳の肩を掴み、壁に押しつけると目を覗き込む。
「見ましたか?」
「あ……ああ、ごめん……見た」
「何を?」
「Aの裸……を……」
「目のことですよ――見ましたね」
Aが顔を近づけてくる。おでこがぶつかり、直巳とAの左目は触れそうなほどに近づく。
「この目を、見ましたね」
Aの白目の中を、羽根を広げた蛇がシュルシュルと動き回る。
その光景は誰でも気味が悪い、恐ろしいと感じるだろう。
だが、直巳はその光景が与える以上の恐怖を感じていた。
Aの目が直巳を見つめ、さらに目の中の蛇が直巳を見つめ、それが無限に繰り返される。
蛇の目は身体の芯に恐怖という感情そのものを叩き込んできた。
恐ろしい。気味が悪い。不愉快。Aと目を合わせているだけで、そんな感情に支配される。
(これも魔術か……それとも呪いなのか……)
直巳はなぜかと考えるより前に、全身を恐怖に支配されていた。
なのに、いや、わかっているからこそ、Aは喜んでいた。
「ほら、もっと見てください。ずっと隠していた、私の一番恥ずかしい部分、見せたくない部分です」
Aの顔は紅潮し、息づかいも荒くなっていた。
「A……それは……なんなんだ……」
直巳がようやく声を出す。何が恐ろしいのか、なぜ恐ろしいのかもわからなくなってきた。
「蛇ですよ。羽根の生えた蛇。生きた蛇が、私の目の中にいるのです」
Aが口をゆっくりと口を開いた。熱い吐息が直巳の顔にかかる。
「そんなに怖がって――嫌がって――もっともっと、怖がらせたくなる」
シュッ、と。鋭い音がして、Aの首から血が垂れた。
「そこまでだ化物」
伊武が大剣をAの首筋に当てていた。寸止めではなく、少し首に食い込んでいる。
「椿君から離れて。殺すわよ」
「そういうのは寸止めをして言うんじゃないですか? もう血が出ているのですが」
「これでもギリギリ押さえているの。少しでも気を抜くと、この首をはねてしまうから」
Aは、「興ざめです」と言いながら、ゆっくりと直巳から離れた。
「直巳様をお助けした時に、酒が身体にかかりましてね。それを流そうと思っていたところ、偶然にも鉢合わせてしまっただけですよ。何もしてません。ねえ、直巳様」
Aがにこりと、いつもどおりの良く出来た執事の笑顔を浮かべる。
ここで、何かされたといえば、伊武は本当にAを殺してしまうだろう。
「……そうだよ。俺がノックすればよかった」
「いえいえ、こちらこそお見苦しいものを。背中でも流そうかと思っていたのですが――」
言い終わる前に、Aは伊武に喉を掴まれた。グゥ、とAの喉から息が漏れる。
「いいから、さっさとその醜い姿を隠せ」
伊武は震えながら、Aの喉から手を離した。
震えていたのは、Aの喉笛を握り潰したい欲求と戦っていたからだ。
「やれやれ……怖い人間だ……シャワーは高宮の家で浴びることにしますよ」
Aが下着に手を伸ばすと、伊武が眼帯を突きだした。
「パンツを履くより先に、眼帯をつけろクソ蛇女」
「わかりましたよ。では、直巳様の背中は、あなたが流してあげてください」
「黙れ」
「いくらあなたでも、裸を見られるのは恥ずかしいですか?」
「もう見せた」
「それはそれは」
Aは手早く着替えると、一礼して浴室を出ていった。
直巳は気持ちを落ち着かせてからシャワーを浴びた。伊武が入ってくるかと警戒していたのだが、それは杞憂だった。伊武は浴室の前で見張ってくれていた。
シャワーを浴びて着替え、自分の部屋に戻ろうとすると、部屋の前にアイシャがいた。
「秋川の件、大変だったわね」
「AとBのおかげで助かったよ」
直巳が言うと、アイシャは大きくため息をついた。
「どうも、Aが迷惑をかけたみたいね」
「正直、秋川より怖かった」
「怖い、ね――Aに言っちゃ駄目よ。喜ぶだけだから」
確かに、直巳が怖がれば怖がるほど、Aは興奮していた。サド、というやつだろうか。
「あれで、あなたのことを気に入っているのよ。あれが、Aの愛情表現なの。かわいそうな奴だと思って、許してやってくれないかな」
「悪気は……ないんだろうな」
「ないわ。相手を好きでも嫌いでもやるけど、直巳の場合は可愛がろうとしたのよ」
アイシャは背を向けて、独り言のようにつぶやいた。
「そういう、生き物なのよ」




