第五話:二人きりなのに、苗字呼び
俺は、やらかしたかもしれない。
昨日、同じクラスの若月さんと、初めてまともに話した。
教室で彼女が、『キヨシ』のクリアファイルを使っていたのだ。
作品だけでなく、推しのキャラまで被っているなんて。
お互い初めて同志に遭遇したものだから、つい早口で愛を語り合ってしまった。
それを、『彼女』——藤沢は、見ていたらしい。
『ふうん。仲良くなれて、よかったね』
(え、何それ。やきもち?)
(だとしたら、無理)
(可愛すぎて、無理なんだけど)
いつもは、余裕たっぷりの彼女にちょっかいをかけられ、俺はまんまと振り回されるだけだ。
だから、なんだか変に浮かれてしまって。
『束縛かよ』
そんな一言を、送ってしまった。
すると、返信が止まった。
時刻は、二十二時。
寝たかどうかは、微妙なところ。
今日は頑張っていたから、疲れたのかもしれないけれど。
直前までやりとりしていたし、向こうからメッセージを始めてくれたのに、寝落ちは考えにくい。
(やばい。怒らせた……か?)
ぐるぐると考えて、なかなか眠りにつけなかった。
◇
朝、下駄箱に着くと、その背中が見えた。
運よく、周りには誰もいない。
歩みを速め、声をかけた。
「……おはよ」
ゆっくりと振り返った彼女は。
俺の姿を認めると、綺麗な微笑みをつくった。
「おはよう。南くん」
(…………)
「……あのさ。昨日、返事なかったけど……怒ってたりする?」
「えっ? ううん! 怒ってないよ? 寝落ちしちゃっただけ」
笑顔が、嘘くさい。
「……感じ悪い言い方して、ごめん」
「だから、大丈夫だってー」
パタン、と下駄箱の扉を閉めて。
上履きをトントン、と履きながら「でも、確認なんだけど」と、続けた。
「好きな子できたら、ちゃんと教えてね? 私たち、別れなきゃいけないしー」
そう言って、去ろうとする。
肝が冷えた。
「……っ、おい……」
引き留めようとしたけれど。
「南、藤沢さん。おっはー」
クラスの男子が現れた。
彼に「おはよ〜」と微笑んだ藤沢は、そのまま行ってしまった。
「南、藤沢さんと話してたん?」
「え、あー、いや……」
「俺、藤沢さんと二人で話すの、無理かも。緊張しちゃう」
遠ざかる彼女の背中を、ただ見ていた。
◇
藤沢と話す機会をつかめないまま、午前中が終わろうとしていた。
廊下の水道で手を洗っていると。
「よっ」
隣に並んできた人物に、声をかけられた。
「……おー」
冷水でバシャバシャと無造作に顔を洗い始めたのは、去年同じクラスだった新山だ。
「南、サッカーだったよな? どうだった?」
「一回戦負け」
「マジか」
「新山は、ソフトボールだよな。いいとこまでいってなかったっけ」
こいつは、野球部だ。
「それがさ。準々決勝までいったのに、部活の先輩のクラスに負けた」
肩にかけた長タオルで顔を拭きながら、「くやしー」とこぼしている。
「…………」
相変わらず、坊主なのにイケメンだ。
そのとき、後ろを、藤沢とクラスの女子たちが通った。
もうすぐ、女子バレーの試合が始まるらしい。
そちらを見ないまま、新山は言った。
「南さ。ひな子と同じクラスだったよな?」
「……え、あ、うん」
動揺が出ないように、必死で答える。
「女子バレー、勝ち進んでたよな」
「あ、そうだな」
新山はくるっと踵を返し、「じゃ、またな」と自分の教室に戻っていった。
あいつ——新山は、藤沢の元彼だ。
俺は去年、二人と同じクラスだった。
付き合ったことも、別れたことも、教室にいれば勝手に耳に入ってきた。
言い訳みたいで、しょうもないけれど。
新山から聞いた『ある話』は、俺がいまだに自分の気持ちを言葉にできない理由のひとつだ。
◇
クラス替え前の、三月。
騒がしいファミレスで、男子だけのお別れ会をしていた。
「新山って、なんで藤沢さんと別れたん?」
男子のひとりが、無遠慮に尋ねる。
(……っ)
手に持っていたグラスをこぼしそうになった。
俺が、藤沢と内緒で付き合いはじめて、一か月が経とうとしていた頃だった。
「知らね。振られた側だし」
(…………)
別れの経緯は、彼女からも詳しくは聞いていなかった。
新山はドリアを頬張りながら、「でも、まあ」と続けた。
「あいつ、追いかけたいタイプだから、付き合うと冷めるっぽいよ」
背中に寒気が走った。
藤沢のことは、実はその時点で、もうかなり好きになっていた。
数日後のホワイトデーに、気持ちを伝えようとさえ思っていた。
けれど。
『早く好きになってくれないかなー!』
いつもそうじゃれてくる彼女を、思い出す。
彼女がただ、『好きと言わない俺を追いかける』という状況を、楽しんでいるだけだったら。
俺が好きと返したら、どうなる。
突然こわくなって、なけなしの勇気は、どこかへいってしまった。
◇
水を出しっぱなしにしてぼーっとしていたことに気づいて、慌てて止めた。




