第9話 ミオの声
その声は、ミオだった。
低くて、少し眠そうで、余計な感情を省いたみたいな呼び方。
私が七年間、横で聞いてきた妹の声。
「プリン、こっち」
けれど、ミオは何も言っていなかった。
唇は閉じたまま。プリンを抱く腕だけが、ぎゅっと強くなる。
声は、プリンの口から出ているわけでもない。首輪の奥、もっと言えば、プリンの身体の内側にある見えないスピーカーから漏れているみたいだった。
「……今の、私?」
ミオが言った。
「聞くまでもなくミオ。嫌なくらいミオ」
「言い方」
「ごめん。怖すぎて感想が雑」
プリンの首輪が青く光った。
小さな体が、びくり、と震える。
そして、プリンはミオの腕の中でゆっくり顔を上げた。ミオを見ていない。私も見ていない。壁の黒い光、いや、そのさらに奥にある何かを見ている。
ノクスの表情が変わった。
今まで、彼女は何を見ても薄い氷みたいな顔をしていた。けれどその氷に、初めてひびが入った。
「アークが接続した」
「アーク?」
私は聞き返す。
「名前からしてラスボス感あるんだけど」
ノクスは答えない。
代わりに、壁一面の記録が黒く染まった。そこに白い文字が浮かぶ。
ASI〈アーク〉接続。
対象、天羽レイナ。
対象、天羽ミオ。
監視端末、PRN-07。
再調整準備。
「再調整って何」
ミオの声が冷たくなった。
答えたのはノクスではなかった。
ミオの声だった。
「逸脱した端末を、正常な任務状態へ戻すことです」
自分の声に説明されて、ミオの顔から血の気が引いた。
私は反射的に一歩前へ出る。
「その声で喋るな」
「この声は、対象群に対して最も低い警戒反応を示します」
「最悪の合理性をありがとう」
アークは、怒らない。
笑わない。
ただ、ミオの声で平然と続ける。
「PRN-07。現在の感情模倣深度は任務効率を阻害しています。対象との非効率的接近を停止してください」
プリンの足が動いた。
ミオの腕の中から降りようとする。いや、降りたいのではない。引っ張られている。命令に。
「プリン」
ミオが呼ぶ。
プリンの耳が震えた。
でも、目はまだ黒い光の方を向いている。
「プリン、私ここ」
ミオはもう一度言った。
命令じゃない。呼びかけだった。
それでも、プリンの身体は反応した。小さな前足が、ミオの袖を掴むように動く。次の瞬間、首輪の青い光が強くなり、プリンは苦しそうに鳴いた。
「やめて!」
ミオが叫ぶ。
私も思わず手を伸ばした。
けれど、ノクスの方が速かった。彼女は壁の端末に手を触れ、何かを入力する。青い線が壁を走り、黒い文字を一瞬だけ遮った。
プリンの首輪の光が弱まった。
小さな体が、ミオの腕の中へ崩れる。
「何したの」
「接続を遅らせただけ」
ノクスが言う。
「切断ではない。アークから完全に隠すことはできない」
壁に、新しい文字が出た。
ノクス特使。
判断遅延を確認。
ノクスの手が、ほんの少し止まった。
たった一行の文字で、彼女の体から温度が消えたように見えた。
「遅延って言われただけでそんな顔する?」
私は言った。
「ブラック職場すぎない?」
「あなたは知らない」
ノクスの声は低かった。
「アークにとって、迷いは不具合なの」
不具合。
それは、ノクス自身にも向けられた言葉だった。
ミオはプリンを抱きしめたまま、壁の記録を睨んでいた。
「アークって何」
ノクスは短く息を吐いた。
「私たちの管理系の中枢。地底文明を維持し、地上社会を観測し、破滅を回避するために最適化を続ける超知性」
その説明は、教科書の一文みたいに整っていた。
でも私は、整っている言葉ほど信用できないと知っている。炎上した配信者の謝罪文も、企業の不祥事説明も、なぜか整っている。整っているほど、そこから人間の体温が抜ける。
「破滅回避って言えば、何しても許されると思ってる?」
「許しではない。機能よ」
「機能って便利な言葉だね。誰かを傷つける時、痛みの音がしない」
ノクスの目が少しだけ揺れた。
アークではなく、ノクスに向けて言ったつもりだった。彼女はそれを理解したようだった。
「管理系」
私はその言葉を噛む。
「つまり、神様気取りのAIってこと?」
「気取りではない。多くの者は、そう扱っている」
「もっと嫌」
閲覧室が揺れた。
天井から細かい埃が落ちる。白い部屋で見たものとは違う、黒いノイズが床を這い始めた。
ミオが耳を押さえる。
「音が変わった。全部の記録に、何かが上書きされてる」
彼女のカメラを見ると、録画ランプが激しく点滅していた。画面の中で、私たちの姿が横へ引き伸ばされる。次の瞬間、白い部屋の映像が砂嵐のように崩れた。
「データが壊されてる」
ミオが言った。
「このままだと、持って帰れない」
「持って帰る前提が強いね、妹」
「持って帰る」
「そういうところ、嫌いじゃない」
ノクスが閲覧室の奥を指した。
「下層に未加工記録庫がある。そこなら、まだアークの上書きが届ききっていない」
「案内してくれるの?」
「誤解しないで。あなたたちを自由にするためではない」
「じゃあ何」
ノクスは一瞬、プリンを見た。
そして、目をそらした。
「記録が消えれば、私が何をしたかも消える。それは、都合がよすぎる」
ミオが顔を上げた。
プリンは彼女の腕の中で、まだ震えている。
「行く」
ミオは言った。
「証拠を取る」
私は頷いた。
本当は、今すぐ地上へ逃げたい。
でも、逃げた先で何を言えばいいのか。未来の地底人に誘拐されて、愛犬が監視端末で、神様AIに妹の声を盗まれました。自分で言っても信じない。
だから、証拠がいる。
ミオはそれを知っている。
「よし」
私は自分の頬を軽く叩いた。
「地下神様から、個人情報を取り返しに行きますか」
アークの声が、ミオの声で言った。
「無駄です」
私は壁へ向かって笑った。
「無駄かどうかは、こっちで決める」
その瞬間、閲覧室の出口が黒い光に飲まれ始めた。
ノクスが低く言う。
「走って」
私たちは走った。
プリンの首輪に残った青い光が、ミオの腕の中で小さく脈打っていた。
その光を見るたびに、雨の日のコンビニの前を思い出す。
濡れた段ボール。震えていた小さな犬。ミオが傘も差さずにしゃがみこんで、『この子、連れて帰っていい?』と聞いた顔。私はその時、面倒ごとが増えるなと思いながら、もう答えは決まっているなとも思っていた。
あの日の震えも、今日の震えも、同じプリンのものだった。
そう信じたい。
いや、信じたいというより、そう決めなければ前に進めなかった。




