第10話 三分だけ頂戴
未加工記録庫は、図書館ではなかった。
本棚も、端末も、机もない。黒い海の中に、無数の光の破片が浮かんでいる。映像、音声、文字、波形、感情の残滓みたいなもの。世界中の誰かの記憶を細かく砕いて、水槽に沈めたらこうなるかもしれない。
「うわ、情報の水族館」
「たぶん、たとえとしては間違ってる」
ミオが言う。
「でも、嫌さは合ってる」
足元には細い通路だけが伸びていた。両側は底の見えない黒い空間。光の破片が、ゆっくりと漂っている。
その中に、私は見つけた。
幼い私とミオの映像。白い部屋。固定具。青い液体。ノクスの声。
それから、プリンの小さな背中。
「元データ」
ミオの目が変わる。
「ここにある」
「持ち出せるの?」
「普通の動画としては無理。容量も形式も違う。でも、信号の形に落とせば、音声レコーダーに入るかも」
「妹が急にSFハッカーになった」
「急じゃない。準備してた」
「いつから?」
「都市伝説を本気で追うと決めた時から」
「かっこいいけど、荷物検査で怪しまれない範囲にしてね」
ミオはバッグから小型レコーダーと、見たことのないケーブルを取り出した。
私は正直、引いた。
「それ、海外旅行に持ってくる物?」
「持ってきたから今使える」
「正論で殴られた」
その時、記録庫の入口で白い球体が三つ浮かび上がった。
警備端末。単眼のようなレンズが赤く光る。
ノクスが前に出た。
「防衛機構が起動している。完全には止められない」
「特使ってもっと権限あると思ってた」
「あなたたちが旧式認証と異常侵入の両方で分類されているせいよ」
「社員証を持った不審者みたいな扱い?」
「近い」
「近いんだ」
警備端末の一つが、ゆっくり通路へ入ってきた。
私の右手が青く光る。端末の動きが、ほんの少し鈍った。
ノクスが言う。
「あなたの発光が認証信号として引っかかっている。数秒は判断が遅れる」
「数秒」
私は笑った。
「配信者にとってはまあまあ長い」
ミオは記録の中心へ向かおうとしていた。プリンは彼女の足元に降りている。まだ震えているが、ミオから離れない。
「ミオ、どれくらいかかる」
「三分」
「長い」
「短く言った」
「つまり本当は?」
「わからない」
「正直でよろしいけど怖い」
私はミオの腕を掴んだ。
「逃げる選択肢は?」
「ある」
「じゃあ」
「でも、今逃げたら、全部ただの陰謀論で終わる」
その言葉は、私の足を止めた。
私たちは都市伝説を扱ってきた。信じたい人、笑いたい人、疑いたい人、その全部に向けて配信してきた。けれど今、私たち自身が都市伝説になりかけている。
証拠がなければ、真実は面白い噂に負ける。
面白い噂は強い。
切り抜きやすい。笑いやすい。怒りやすい。誰かに送る時、少しだけ自分が賢くなった気がする。
私たちも、そういう強さに何度も助けられてきた。サムネの赤文字、煽り気味のタイトル、怖いBGM。嘘ではない。でも、見やすい形へ整えることはしてきた。
だからこそ分かる。
このまま地上へ戻れば、私たちは『未来の地底人にさらされた姉妹』ではなく、『海外ロケで攻めすぎた配信者』になる。
「三分だけ頂戴」
ミオが言った。
「お姉ちゃん」
姉としては、無理だと言いたかった。
今すぐミオを抱えて逃げたい。プリンも抱えて、ノクスの説明もアークの声も全部置いて、地上の朝へ戻りたい。
でも、相棒としては、わかっていた。
ミオは正しい。
私は息を吸う。
そして、初めてその言葉を口にした。
「任せた」
ミオの目が揺れた。
「本当に?」
「三分だけ。百八十秒。超えたら、姉権限で強制撤退」
「姉権限、まだ有効?」
「更新制です」
ミオは少しだけ笑い、記録の中心へ走った。
プリンもついていく。小さな足音が、黒い通路に必死に響いた。
私は入口へ向き直る。
警備端末が赤いレンズでこちらを見る。
「はいはい、こっちこっち。地下施設の皆さんこんばんは。都市伝説系VTuber、天羽レイナです。突然ですが、警備システムって長話に耐性あります?」
端末は答えない。
でも、止まった。
「いいですね。沈黙は同意と見なします。まず確認ですが、私は敵ではありません。観光客です。観光客が立入禁止地下施設にいる時点でアウト? それはそう」
ノクスが横目で私を見た。
「本気でそれを続けるの」
「他に手札がないので」
「あなたの軽さは、時々理解に苦しむ」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めていない」
警備端末が一機、急に速度を上げた。
私は横へ転がる。白い球体が髪をかすめ、壁ぎりぎりで止まった。頬に熱い線が走る。
「痛っ! 今、顔いった? 顔面は商品価値があるんだけど!」
「お姉ちゃん!」
奥からミオの声。
「平気! ちょっとサムネに使える傷ができた!」
「使わないで!」
そんな会話をしている間にも、ミオは記録片を拾っていた。
彼女は手で触れているわけではない。耳で選んでいる。後で聞いたら、誘拐記録は金属をこするような音、プリンのログは小さな鈴みたいな音がしたらしい。
私には、ただ彼女が黒い海の中で光を釣っているように見えた。
「一つ取れた!」
「ナイス!」
「まだ足りない!」
「ですよね!」
残り、たぶん二分。
時間感覚はもう壊れていた。
壁の奥から、ミオの声がした。
「お姉ちゃん、後ろ」
私は振り返りかけた。
でも、本物のミオは記録庫の奥にいる。あの距離で、そんな声量では聞こえない。
偽物。
わかっていたのに、一拍遅れた。
警備端末が横から突っ込んでくる。ノクスが細い銀色の器具を振り、端末の軌道をずらした。
「今の、助けたよね」
「邪魔な物体を除けただけ」
「ツンデレ分類していい?」
「不愉快よ」
壁に文字が浮かぶ。
ノクス特使。
権限逸脱の可能性。
判断遅延、継続。
ノクスの手が固まった。
アークは彼女も見ている。
この白い特使も、自由ではない。
「取れた!」
ミオが叫んだ。
「最後!」
同時に、記録庫全体が黒く沈んだ。
ミオのスマホが勝手に点灯する。通話中の画面。発信者名はない。
スピーカーから、ミオの声が流れた。
「よく生き延びてきた」
ノクスが息を呑む。
「アーク……」
ミオは最後の記録を掴み、レコーダーへ信号を流し込む。
プリンがその前に立った。小さな体で、偽物の声とミオの間に。
「ミオ、撤退!」
私は叫ぶ。
ミオがこちらへ走る。
プリンも走る。
背後で、黒い光が噴き上がった。
壁に白い文字が出る。
ASI〈アーク〉接続完了。
その文字が、まるで閉店のシャッターみたいに、出口を塞いでいった。
ミオがレコーダーを胸に抱える。
プリンがその足元で吠える。
ノクスが、初めてはっきりと焦った顔をした。
「出口、閉じる!」
「見れば分かる!」
「実況の基本は見えていることを言うことです!」
私は叫びながら走った。
怖い。怖いけれど、さっきよりは少しだけ足が動く。
ミオに任せた。ミオが取った。だから今度は、私が繋ぐ番だった。




