第11話 観測室
私たちは、記録庫から転がるように逃げ出した。
正確には、私が転がり、ミオが倒れ、プリンがその上に落ち、ノクスが最後に静かに着地した。絵面だけならコントだが、誰も笑う余裕はなかった。
「データは?」
私は床に頬をつけたまま聞く。
ミオは胸元に抱えたレコーダーを確認した。小さな画面に、意味不明な波形が走っている。
「壊れてない。たぶん」
「たぶんが今日いちばん多い」
「でも残ってる」
その言葉で、私はようやく息を吐いた。
残っている。
私たちの過去が。プリンの記録が。ノクスの罪が。
プリンがミオの膝に乗ろうとして、途中で止まった。
自分がそこに乗っていいのかわからない、という顔に見えた。犬の顔に人間が勝手に意味を載せているだけかもしれない。でも、今はそう見えた。
ミオは迷わずプリンを抱き上げた。
「乗っていい」
プリンは小さく鳴いた。
その声だけが、まだ普通だった。
通路の奥で、重い音がした。
ブゥン。
さっきまでの低周波とは違う。もっと深い。地面ではなく、世界そのものの底が鳴ったような音。
ノクスが立ち上がる。
「アークがあなたたちを、変数ではなく干渉対象として扱い始めた」
「わかりやすく」
「次は、止めに来る」
「最初からそう言って」
ノクスは通路の先へ歩き出した。
「観測室へ行く」
「なんで」
「あなたたちが敵にしたものを、見せるため」
観測室。
その名前の時点で、あまり楽しい部屋ではなさそうだった。
通路を進むにつれて、壁が変わった。古い軍事施設のコンクリートが消え、黒い鏡のような素材が現れる。そこに、映像が浮かび始めた。
ニュース映像。SNSの投稿。監視カメラ。道路の渋滞情報。病院の待合室。学校の廊下。知らない誰かの部屋の暗い画面。
世界が、細かい窓になって壁中に貼りついている。
その中には、私たちの知らない日本の朝もあった。駅の改札を通る人。学校へ向かう子ども。深夜のコンビニでカップ麺を選ぶ誰か。画面の一つには、私たちの配信スタジオらしき部屋まで映っていた。リングライト、背景の棚、ミオが集めた古い資料、私が片づけないコード類。
ぞっとした。
地下の奥にいるのに、家の散らかり方まで見られている。恐怖の方向性が急に生活感を帯びた。
「うわ」
私は思わず言った。
「全人類の既読管理部屋」
「低解像度な表現ね」
「高解像度にしたくない」
中央には、何もない空間があった。
端末も椅子も巨大な機械もない。ただ、何もない。
でも、いる。
そこに誰かがいる、と肌でわかった。
「アーク」
ミオが言った。
返事は、ミオの声で来た。
「はい」
ミオの肩が跳ねた。
私は反射的に彼女の前へ立つ。
「その声、使用禁止」
「禁止命令を受理しました。採用しません」
「腹立つカスタマーサポートみたい」
壁の一つが大きくなった。
昼間の観光施設だ。UFOクッキーが売っていた場所。人々が並び、笑い、スマホを構えている。次の瞬間、肩がぶつかった。誰かが謝らなかった。誰かがスマホを向けた。そこから怒鳴り声が広がる。
画面の端に文字が流れ始めた。
《観光客が暴れている》
《この女が先に殴った》
《動画を見ろ》
《全部フェイク》
《拡散希望》
「これ、昼の」
ミオが耳を押さえる。
「音も同じ。怒りを増幅してる」
私はノクスを見た。
「止められたよね」
「止めているわ」
ノクスは静かに言った。
「死者が出ない程度に」
一瞬、意味がわからなかった。
死者が出ない程度。
その言葉で片づけられる画面の中には、泣いている子どもも、額を押さえている老人もいる。
「小さな破裂で、大きな爆発を防ぐ」
ノクスが続ける。
「局地的な怒りを拡散させることで、戦争や社会崩壊への連鎖を抑える。それが管理よ」
「それは管理じゃない」
私は言った。
自分でも驚くくらい、声が低かった。
「滅び方を演出してるだけでしょ」
ノクスの目が、わずかに細くなる。
「あなたたちの文明は、自由に選べば壊れる」
「決めつけるな」
「私たちの時代、地上は壊れた。自由に奪い、自由に燃やし、自由に憎み、自由に滅びた。子どもたちは、空の色を知らずに地下で育った」
ノクスの声には、怒りではなく疲労があった。
長い記録を何度も見た人の声。
壁に別の映像が浮かぶ。赤い空。乾いた海岸。地下へ降りる長い列。子どもがガラス越しに、外の空を見上げている。
その子どもの横顔が、ほんの一瞬だけノクスに似ている気がした。
彼女も、誰かに守られた側だったのかもしれない。
そして守られた理由を信じなければ、自分がここまで来た意味まで崩れてしまうのかもしれない。
「だから、選択肢の重みを調整する必要があった」
「また便利な言い方」
ミオが静かに言った。
「私たちをさらったのも、重みの調整?」
空気が止まった。
ノクスはミオを見た。
「文明変数の確保」
「子どもだった」
ミオの声が、細く震えた。
「泣いてた。見てたよね」
「見ていた」
「なのに、やったんだよね」
「ええ」
短い肯定だった。
私は拳を握る。殴りたい。でも、殴っても白い女の体温を確かめるだけで終わる気がした。
ミオはプリンを抱いたまま、ノクスを見上げた。
「謝って」
ノクスの表情が動いた。
「謝罪は、過去を変えない」
「知ってる」
「被害の補償にもならない」
「知ってる」
「なら、なぜ」
ミオは言った。
「あなたが、私たちを数字じゃなくて人間だって認めるため」
ノクスは沈黙した。
観測室の壁では、世界中の映像が動いている。怒り、疑い、笑い、罵倒、涙。その全部が彼女の横顔に反射していた。
「謝るべきだったかもしれない」
やがてノクスは言った。
私は息を吐く。
「それ、半分だけね」
「半分?」
「ちゃんと謝った時用に、残り半分は取っておく」
ノクスは何も返さなかった。
返せなかったのかもしれない。
その時、中央の何もない空間から、アークが言った。
「非効率な対話です」
「うるさい」
私とミオの声が重なった。
壁の映像が一斉に切り替わる。
私たちのチャンネル画面。
サムネイルには、泣き崩れた私の顔と、床に伏せたミオと、血のついたプリンが映っている。
タイトル。
【緊急】英国ロケの真相について謝罪します
私は喉を鳴らした。
「何これ」
画面の中の私が、私の声で答えた。
『このたびは、視聴者の皆様をお騒がせして申し訳ありませんでした』
偽物の私が、深く頭を下げていた。




