第8話 偽装名称、プリン
文字が乱れた瞬間、プリンが吠えた。
いつもの「きゃん」という細い声ではなかった。もっと低く、短く、切羽詰まった音。小さな体から出たとは思えない、警告の声だった。
「プリン?」
ミオが腕の中のチワワを見る。
プリンはミオを見ていなかった。
壁の記録を見ていた。青い文字。監視端末。PRN-07。
まるで、そこに自分の名前が書かれていることを知っているみたいに。
「ノクス」
私は言った。
「これ、何」
ノクスは答えなかった。
その無言が、答えの形をしていた。
「監視端末って何」
ミオの声が、白い部屋の光より冷たくなった。
「言葉通りよ」
「言葉通りが一番嫌なんだけど」
私は言った。
「端末って、スマホとか、カメラとか、そういうやつでしょ」
ノクスは視線をプリンへ向けた。
プリンはミオの腕の中で、震えていた。いつも震えている。でも、今の震えは違う。寒いからでも、怖いからでもなく、何かに耐えているような震えだった。
「生体端末」
ノクスが言った。
「あなたたちの時代の生物を基礎に、微細な記録器官と通信器官を組み込んだ観測体」
「やめて」
ミオが言った。
ノクスの言葉が止まる。
「プリンを、部品みたいに言わないで」
プリンが、小さく鳴いた。
それが返事のように聞こえてしまって、私は嫌だった。嫌なのに、そう思わずにいられなかった。
「まだ、プリンって決まったわけじゃ」
私は言いかけて、自分の声が弱いことに気づいた。
壁の文字は、まだ乱れている。
偽装名称の後ろだけが、読めない。
見たくないから読めないのか、施設が隠しているのか、私にはわからなかった。
「開ききって」
ミオが言った。
「ミオ」
「開ききって」
その声は、泣く直前の声だった。
けれど、彼女は泣かなかった。プリンを抱いたまま、青い記録を睨んでいる。
ノクスが小さく息を吐く。
「あなたたちが選ぶことではない」
「ううん」
ミオは首を横に振った。
「私たちの犬の話だから、私たちが見る」
犬。
その言葉に、プリンの耳が動いた。
ノクスは、今度こそ長く黙った。
白い顔には、ほとんど表情がない。でも、その目の奥にあるものを、私は見た気がした。
迷い。
この人は、いつも迷ってから、結局ひどい方を選んできたのかもしれない。
「開いて」
私も言った。
「怖いけど、見せて」
ノクスは手を下ろした。
記録のノイズが消える。
青い文字が、ゆっくり並び直した。
監視端末:PRN-07。
偽装名称:プリン。
配置先:天羽姉妹居住区画。
観測継続期間:七年二か月。
現在状態:監視継続中。
時間が止まった。
たぶん、実際には止まっていない。壁の青い光は明滅していたし、床下から低い振動も続いていた。カメラの録画ランプも赤く点いている。
でも、私の中の時間だけが、そこで止まった。
プリン。
うちのプリン。
ミオの膝で眠るプリン。私の編集作業中にキーボードの上を歩くプリン。雷の日に毛布へ潜るプリン。渡航用キャリーの中で震えていたプリン。
それが、監視端末。
「……うそ」
ミオの声が、ほとんど空気だけになった。
プリンは、ミオの腕の中にいた。
いつものプリンだった。薄茶と白の毛。濡れた鼻。丸い目。震える体。悪いことをした犬みたいに、耳を伏せている。
でも、犬に悪意なんてあるのか。
端末に、罪悪感なんてあるのか。
「説明して」
私が言った。
声が、自分のものじゃないみたいに低かった。
「PRN-07は、あなたたちの初期処置後、一定期間を置いて地上へ配置された。迷い犬として接触し、以後、発光反応、夢反応、信号感知を記録していた」
雨の日を思い出した。
コンビニの前。濡れて震える小さな犬。ミオが抱き上げて、どうしよう、と私を見た。私は、どうしようも何も拾う顔じゃん、と笑った。
あれが。
全部。
「飼い主が見つからなかったのも」
ミオが言う。
「そのように整えた」
「病院で何も出なかったのも」
「当時の検査では検出できない」
「うちに来たのも」
「計画の一部」
ミオの腕が震えた。
プリンが小さく鳴く。ミオは反射的に抱きしめようとして、途中で止まった。
その「止まった」が、一番つらかった。
今までなら迷わず抱きしめていた。考える前に、かわいそうだと思って、温めようとしていた。なのに今、私たちは考えてしまっている。
これは犬なのか。端末なのか。家族なのか。敵なのか。
プリンは、ミオの顔を見上げた。
黒い目。何も言えない目。
「プリン」
ミオが呼ぶ。
プリンの耳が動いた。
けれど、その目はミオを見ていない。ミオの肩越しに、壁の記録を見ている。
私はしゃがんだ。
「プリン、こっち見て」
プリンは、ゆっくり私を見る。
その瞬間、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。
この目に、何度も助けられた。徹夜明け、編集ソフトが落ちた時。再生数が伸びなくて、深夜にひとりで落ち込んでいた時。ミオが泣いて、私がどう声をかければいいかわからなかった時。
プリンはいつも、なぜかちょうど邪魔な場所にいた。
「ずっと見てたんだ」
私は言った。
プリンは何も言わない。
犬だから。
いや、もうその言い方すら、正しいのか分からない。
「ずっと、報告してたんだ」
ノクスが答える。
「危機反応のみよ。生活のすべてではない」
「生活の全部じゃないからセーフ、みたいな言い方やめて」
「弁解ではない」
「じゃあ何」
「事実」
「事実って便利だね。人を傷つけるとき、責任を持たなくていい顔をする」
ノクスは黙った。
その沈黙は、少し長かった。
「責任がないとは言っていない」
私は返事をしなかった。
怒りたい。怒鳴りたい。けれど、どこへ怒ればいいのかわからない。ノクスか。アークか。未来の地底人か。プリンか。雨の日のあの小さな犬を見て、何も疑わずに拾った自分たちか。
「お姉ちゃん」
ミオが小さく言った。
「プリンのこと、嫌いになる?」
その質問は、刃物みたいだった。
ミオが私に聞いているようで、本当は自分に聞いているのだとわかった。
「わかんない」
私は正直に言った。
「腹立つ。怖い。悲しい。全部ある。でも」
プリンが、私の指に鼻先を近づけた。
濡れていて、温かい。
「嫌いって言うには、あまりにもプリン」
ミオの目から、涙が一粒落ちた。
彼女はすぐに拭こうとした。けれど、その前にプリンが顔を伸ばし、ミオの指をなめた。
「ずるい」
ミオが言った。
その声は、責める声ではなかった。
泣きそうで、怒っていて、それでも離せない声だった。
ノクスは、壁の記録に触れた。
「PRN-07には、独立判断ログがある」
「独立判断?」
ミオが顔を上げる。
「任務に直接関係しない行動記録よ。必要はない。けれど、異常値として保存されている」
壁に、短い映像が並んだ。
私が高熱で寝込んでいる夜、プリンがベッドの横から離れなかった映像。
ミオが炎上しかけた配信の後、机に突っ伏して泣いている夜、プリンが膝へ乗る映像。
地震速報の音でミオが固まった時、プリンが吠えて彼女の注意を逸らした映像。
私が徹夜編集中、キーボードの前に寝転がって作業を妨害している映像。
最後に、青い文字が出た。
命令外接触増加。
対象への非効率的接近を確認。
私は笑った。
泣きそうになりながら、笑った。
「そこは愛情って言うんだよ、ばか」
その時だった。
閲覧室の青い光が、一瞬だけ黒く染まった。
壁に新しい文字が浮かぶ。
ASI〈アーク〉接続準備。
監視端末PRN-07、再調整対象に指定。
プリンの首輪の奥で、青い光が灯った。
ミオが息を呑む。
そして、プリンの口ではない場所から、ミオの声が聞こえた。
「プリン、こっち」




