第7話 誘拐記録
白い部屋に、誰も喋らない時間が落ちた。
映像は消えたのに、幼いミオの泣き声だけが耳の奥に残っている気がした。私を呼んでいた。何度も。私はその時、返事をできなかった。隣にいたのに。姉なのに。
ミオは処置台から手を離した。
プリンを抱く腕に、力が入りすぎている。プリンが苦しそうに小さく鳴いて、ミオは慌てて腕を緩めた。
「ごめん」
プリンは返事の代わりに、ミオの顎をなめた。
その仕草だけが、この部屋の中で普通だった。
「今の、あなた?」
ミオがノクスを見た。
「処置を止めようとして、でも続けたの。あなた?」
ノクスは目をそらさなかった。
「ええ」
短い肯定だった。
言い訳も、飾りもない。そのせいで余計に腹が立った。
「ええ、じゃないんだけど」
私は言った。
「泣いてたじゃん。子どもだったじゃん。ミオ、あんなに泣いてたじゃん」
「知っている」
「知っててやったんだ」
「ええ」
私は笑った。
嫌な笑いだった。笑わないと、たぶん叫んでいた。
「最低」
「否定しない」
「否定しなければいいと思ってる?」
「思っていない」
ノクスの声は静かだった。
静かすぎて、壁に反射しない。まるで、ここにある白い光に全部吸われてしまうみたいだった。
「私は、あなたたちを変数として扱った」
「人間だよ」
自分の口から出た言葉に、少し驚いた。
当たり前のことなのに、ここでは言わなければいけないらしい。
「私もミオも、人間だよ。泣くし、怖がるし、怒るし、チワワの名前を三日悩んだ結果プリンにするくらいには、ちゃんと無駄なことをする」
「最後の情報、必要?」
ミオが小さく言った。
「必要。人間性の証明として」
ノクスは、プリンを見た。
プリンはミオの腕の中で震えながら、ノクスではなく、白い部屋の隅にある小さな端末を見ていた。その端末の青いランプが、一度だけ点滅する。
「あなたたちに見せるべき記録は、まだある」
ノクスが言った。
「今の映像だけでは、断片にすぎない」
「断片でもかなり胃もたれしてるんですけど」
「進むわ」
「拒否権」
「上位通路は閉鎖された。戻れば、アークの自動防衛が起動する」
「拒否権、地下では売り切れ」
私はミオを見た。
ミオは唇を噛んでいた。怖い顔だ。いや、怖がっている顔ではない。泣くのを後回しにしている顔だった。
「行く」
ミオが言った。
「全部見る」
私は頷いた。
「了解。吐きそうになったら、先に言って。床が自己洗浄するらしいから」
「情報が嫌」
「私も言ってて嫌」
白い部屋の奥の壁が開いた。
細い通路へ進む。壁には、英語でも日本語でもない文字が浮かんでいた。幾何学模様に見えるのに、目を離すと意味だけが頭に残りそうで気持ち悪い。
「撮れる?」
私が聞く。
「撮ってる。でも、映像がぼける」
ミオが小型カメラを確認する。
「自動秘匿」
ノクスが答えた。
「そのまま記録されると、あなたたちの端末が処理しきれない。意味の薄い模様に落とされる」
「不便な親切」
「親切ではない。事故防止」
「未来の人、言葉がずっと冷たい」
通路の突き当たりには、円形の閲覧室があった。
中央に青い光の柱が立っている。ノクスが手をかざすと、光がほどけ、無数の記録片になった。
文字、映像、音声、波形。壁一面に資料が広がる。
その中に、私たちの名前があった。
天羽レイナ。
天羽ミオ。
知らない場所に、自分の名前がある。
それだけで、ぞっとした。
「対象名、天羽レイナ。発声反射、群衆誘導耐性、緊急時言語化傾向」
ミオが読み上げる。
「やめて。性格診断より嫌」
「対象名、天羽ミオ。低周波認識閾値、異常信号同定能力、探索継続性」
「オカルト好きがデータ化されてる」
「言い方、ちょっとかっこいいね」
「うれしくない」
次の行で、私たちの声は止まった。
回収地点、レンデルシャム北側旧軍用地。
回収理由、第五周期文明変数候補。
「文明変数って何」
私が聞く。
ノクスは壁の一部を拡大した。
五つの円が、重なり合っている。それぞれに年代らしき数字がついていた。
「地上文明は、あなたたちが思うほど直線的ではない」
「いきなり大きい話を始めるのやめて。こっち、まだ自分の誘拐記録で手一杯」
「必要な前提よ」
ノクスの声は淡々としていた。
「人類は何度も発展し、何度も破局を迎えた。環境崩壊、資源戦争、情報崩壊、人工知性の暴走。原因は時代ごとに違う。でも結果は似ている。地上社会は一定の密度を超えると、自らを維持できなくなる」
「それで、あなたたちは地下に逃げた?」
ミオが聞く。
「最初に逃げた者たちは、そう。私たちはその末裔。あなたたちの言葉なら、未来の地底人」
私は頭を押さえた。
「宇宙人を追ったら未来の地底人。情報量、サムネに入らない」
「でも、辻褄は合う」
ミオが言う。
「それが一番怖い」
壁の映像が変わる。
都市。海。炎。砂嵐。地下へ降りていく人々。泣いている子ども。巨大なサーバー群のようなもの。どの映像も短く、冷たかった。
「地底文明は、地上の破局を二度と繰り返さないため、管理系を作った」
ノクスが言う。
「超知性ASI〈アーク〉。情報、不安、噂、怒り、信頼を観測し、調整する存在」
「調整って、昼間の観光施設みたいな?」
「ええ。小さな衝突で、大きな崩壊を防ぐ」
「それ、守ってるんじゃなくて、人間の壊れ方を操作してるだけじゃん」
ノクスは答えない。
その沈黙が、少しだけ人間っぽかった。
ミオが記録を指で追う。
「ナノ機械群定着率。レイナ、七十二パーセント。発光反応、抑制。ミオ、信号感知率、予測値超過」
「私たちの体の中に、本当にあるんだ」
「ええ」
「取り出せる?」
「現時点では推奨しない。神経系と定着しすぎている」
「聞きたくない医療情報、優勝」
ミオはさらに下の項目を開こうとした。
その瞬間、ノクスが手をかざした。記録の一部が閉じかける。
「今は順序がある」
「隠した」
ミオが言った。
「負荷が大きい」
「隠した」
ミオは同じ言葉を繰り返した。
短い。だから逃げ道がない。
私は画面を見た。
閉じかけた項目の見出しが、ちらりと読めた。
監視端末、同行開始。
胸の奥が、変な音を立てた。
「開いて」
私が言った。
ノクスは私を見る。
「レイナ」
「開いて」
「あなたたちには、負荷が大きい」
「誘拐されて、記憶をいじられて、変数とか言われて、今さら負荷を心配されても困るんだよ」
ミオも言った。
「見せて」
長い沈黙。
ノクスは、ゆっくり手を下ろした。
閉じかけていた記録が、再び開く。
青い文字が白い壁に浮かび上がった。
監視端末:PRN-07。
偽装名称:――
文字はそこで、一度だけ乱れた。




