第6話 白い部屋は夢の続き
「地上へ返した者」
ノクスのその言葉は、地下の冷たい空気よりも私の肺を固くした。
返した。
まるで、落とし物みたいに。借りた機材を返却するみたいに。私とミオの人生を、そんな事務処理の動詞で片づけられた気がした。
「返したって、何。私たち、レンタル品だった?」
「比喩としては不正確ね」
「今の質問に正確さを求めないで。感情で聞いてる」
ノクスは少しだけ首を傾けた。
感情、という単語を、辞書の中から取り出して眺めているような顔だった。
「ここで説明しても、上の者たちが近づいてくる。あなたたちが森へ入った時点で、複数の人間が誘導されている」
「誘導?」
ミオが短く聞く。
「コメント欄の他人たちよ。人間は、自分で選んでいるつもりでも、少し押されるだけで群れになる」
「嫌な言い方」
「事実よ」
背後の階段の上から、遠い足音がした。
たぶん懐中電灯を持った誰か。さっき森の奥に見えた光の持ち主たち。管理者なのか、配信者なのか、ただの野次馬なのかはわからない。けれど、今の私にはどれも同じくらい怖かった。
「来なさい」
ノクスは防火扉の向こうへ身を引いた。
「あなたたちが見た夢の続きを、見せる」
「罠にしか聞こえない」
「罠よ」
「開き直った」
「でも、あなたたちは来る。上には戻れない」
階段の上で重い音がした。
金属扉が閉じる音。続いて、鍵がかかるような硬い響き。
逃げ道が、きれいに消えた。
私はミオを見た。ミオはプリンを抱いたまま、胸元の小型カメラを確認している。赤い録画ランプはまだ生きていた。
「お姉ちゃん」
「うん」
「記録、回す」
「いいね。こうなったら、地下からこんばんはだ」
私たちはノクスの後を追った。
通路は、古い軍事施設の顔をしていた。ひび割れた壁、錆びた配管、剥がれた英語の警告表示。けれど、そのひびの奥には青い線が流れている。コンクリートの血管みたいに、ゆっくり明滅している。
プリンは吠えなかった。ミオの腕の中で震えながら、ノクスではなく、通路の奥を見ていた。
「プリン、ノクスさんより奥が気になるタイプ?」
「さん付けするの?」
「初対面の不審者にも礼儀は必要かなって」
「誘拐犯かもしれないのに」
「かもしれないじゃなくて、たぶんそういうニュアンスの自己紹介された」
ノクスは振り返らない。
「誘拐という言葉は、あなたたちの法体系では近い」
「近いんだ」
「ただし、目的は保護と観測だった」
「誘拐犯の言い訳、だいたい目的がきれい」
ようやくノクスが振り返った。
白い顔。薄い灰色の目。その奥に、ほんの少しだけ疲れた色があった。
「あなたは、怖いほど言葉を増やすのね」
「怖いから増やしてるんですけど」
「知っている」
その「知っている」が嫌だった。
どれくらい前から、どこまで知っているのか。私たちの配信。癖。夢。家。プリンを抱くミオの手。全部見られていたのではないかという気がして、背中に冷たい汗が浮いた。
通路の先に、丸い扉があった。
扉には取っ手も鍵穴もない。ただ、私の手と同じ色の青い線が走っている。
私が近づくと、その線が脈打った。私の手の甲の青い線も、同じリズムで明るくなる。
「うわ、共鳴しないで。本人の許可を取って」
「あなたの体内に定着したナノ機械群が、旧式認証に反応している」
「聞きたくない単語が渋滞してる」
「ナノ機械群?」
ミオの声が低くなる。
ノクスは扉に手をかざした。
「答えは中にある」
「その台詞、だいたい中にろくなものない」
扉が開いた。
白い光が、通路へあふれた。
私は一歩入った瞬間、喉が縮んだ。
そこは白かった。ただ明るいだけではない。光そのものが床になり、壁になり、天井になっているような白さだった。
壁際には銀色の台。天井から下がる細いアーム。腕を固定するための輪。透明な管。青く光る液体。
知っている。
私はここを知っている。
「……手術室」
ミオが言った。
「正確には処置室」
ノクスが答える。
「その訂正、安心材料にならないんだけど」
私は言った。声が少し掠れていた。
夢の中では、もっと大きく見えた。
台も、天井も、白い光も、全部が怪物みたいに大きかった。けれど今見ると、処置台は子ども用に調整されていたのだとわかる。横に、低い補助ステップが置かれている。
幼い子どもを乗せる高さ。
ミオの腕の中で、プリンが細く鳴いた。
ミオは震える手で、プリンの背を撫でる。
「ここで、あなたたちは初期処置を受けた」
ノクスが言う。
「初期処置って便利な言葉だね」
私は笑おうとした。口元だけが動いた。
「子ども二人を縛って、変な光る液体を入れることを、そっちではそう呼ぶんだ」
「縛ったのではない。安全のために固定した」
「言い換えの暴力、上手すぎる」
ノクスは反論しなかった。
その沈黙が、答えだった。
ミオが処置台の縁に手を置いた。
次の瞬間、白い壁に青い線が走った。低い起動音。ブゥン。
壁一面が、透明な画面のように変わっていく。
映像が浮かんだ。
ノイズ混じりの白い部屋。
処置台。
泣いている幼い女の子が二人。
そこに、私がいた。
小さな私。髪は今より短く、顔は涙でぐしゃぐしゃだった。腕を固定され、足をばたつかせている。
隣の台では、幼いミオが泣いていた。小さな手が、空をつかもうとしている。
ミオの今の手が、私の袖を掴んだ。
強い。痛い。でも、私は振り払わなかった。
「止めて」
ミオが言った。
ノクスが手をかざす。
映像が止まった。
幼い私も、幼いミオも、泣いたまま固まる。
私は息を吸った。
胸の奥に、知らないはずの痛みが広がっていく。
「これ、夢じゃないんだ」
「記憶よ」
ノクスが言った。
「あなたたちの中に残っていた断片」
「私たちに、何をした」
声が震えた。
怖いからじゃない。怒っているからでもない。たぶん、その両方だった。
ノクスはすぐには答えなかった。
白い部屋の奥で、別の映像が浮かび上がる。
若いノクスが映っていた。今より少しだけ表情が硬い。泣き叫ぶ幼い私たちを見下ろし、手を止めている。
記録音声が流れる。
『対象の恐怖反応が想定値を超過。処置延期を申請』
別の声が答えた。
人間の声ではない。穏やかで、平らで、何よりも迷いがなかった。
『延期は文明変数の損失を招く。続行せよ』
若いノクスは、長く沈黙した。
そして、目を伏せたまま言った。
『……続行を承認』
白い部屋の光が、さらに強くなった。
幼いミオが、私の名前を叫んだ。
そこで映像は切れた。




