第5話 北側へ行くな
二十三時十七分。
私たちはレンデルシャムの森の北側へ向かっていた。
行くなと言われた場所に行く。
ホラー映画なら死亡フラグの見本市だ。しかも時間指定付き。普通なら絶対にやめた方がいい。
普通なら。
でも普通の人間は、自分の手が青く光らない。妹が地下からの信号を聞き取らない。愛犬が地図の一点を前足で踏まない。普通が先に逃げたので、私たちはその後を追うしかなかった。
「これ、配信してたらコメント欄が『帰れ』で埋まるやつだね」
私は小声で言った。
「半分は『行け』だと思う」
「人の命で選択肢ゲームするのやめてほしい」
「でも、お姉ちゃん、数字は見る」
「見るよ。配信者だから。でも今日は見ない。えらい」
「えらい」
「今の、雑に褒めた?」
「生きて帰ったら丁寧に褒める」
「また生存条件付き」
軽口は小さく、短くした。
配信していない森は、同じ場所なのにまるで違った。コメント欄がない。画面右下の私もいない。懐中電灯の輪と、自分の呼吸だけがある。
私はレイナではなく、天羽レイナとして森に立っていた。
それが、思ったより怖かった。
ミオは片手に小型カメラ、片手にプリンのリードを持っている。プリンは驚くほどまっすぐ歩いていた。普段の散歩では落ち葉にも怯えるくせに、今は迷いがない。
「プリン、道わかってるみたい」
「言わないで。私もそう思ってる」
「犬の帰巣本能?」
「帰巣って、この子の巣はうちのソファでしょ」
プリンは振り返らなかった。
ハロルドにもらった古い地図にあった旧軍用地の境界は、苔に覆われたフェンスで区切られていた。立入禁止の看板は半分読めない。倒木がフェンスを押し曲げ、人が一人通れる隙間を作っている。
「自然にできた抜け道にしては、都合がよすぎる」
「誘われてる」
「だよねえ」
私は息を吐いた。
「ミオ、最終確認。行く?」
「行く」
「危ないと思ったら戻る」
「うん」
「プリン、無理しない」
プリンが小さく鳴いた。
それが返事のように聞こえてしまって、少し嫌だった。
フェンスを越えると、森の匂いが変わった。湿った土と葉の奥に、金属と油の古い匂いが混じる。足元にはコンクリート片が覗き、木々の間に人工的な直線があった。
ミオがカメラを回す。
「現地時刻二十三時三十一分。レンデルシャムの森北側、旧軍用地と思われる区域に入る。配信はしていない。記録のみ」
「お、実況うまい」
「お姉ちゃんの真似」
「私そんな硬い?」
「怖い時は硬い」
「やめて、分析が正確」
足元から低い音が来た。
ブゥン。
昨夜より近い。ミオが顔をしかめる。プリンが止まり、地面に鼻を近づけた。
私は自分の手を見た。袖口の内側が、かすかに青い。
「光ってる?」
「少し」
「テンション上がる場面じゃないのに、体だけ演出過剰」
「お姉ちゃん、無理に喋ってる」
「バレた?」
「バレる」
バレる。
その言葉が胸に残った。ミオは普段、私が無理に笑っていても気づかないことがある。けれど今夜の妹は、ずっと私を見ている。
木々の間に、コンクリートの低い構造物が見えた。
半分土に埋もれ、蔦に覆われた古い壁。倉庫か、地下設備の換気口か。その前に、青い光が漏れていた。
「戻る?」
ミオが聞く。
私は前方を見た。
逃げたい。
今すぐ帰って、温かい紅茶を飲んで、経費精算で現実に戻りたい。
でも、帰ったところで、白い部屋の夢は消えない。
「あと少しだけ」
「それ、一番だめな言葉」
「知ってる」
構造物のそばには、錆びた金属扉があった。英語の文字は塗装が剥げて読みにくい。
ミオが苔を払う。
「ベントウォーターズ、補助施設?」
「基地関連っぽい」
「開く?」
「普通は開かない」
その瞬間、プリンが扉の前で吠えた。
金属の内側から、何かが応じるように鳴る。
カチリ。
解錠音。
「普通は?」
「開かない」
「今、開いたよね」
「開いた」
「短っ」
扉が内側から少しだけ押し出された。
冷たい空気が流れてくる。森の湿気とは違う。乾いていて、金属と埃と、古い電気の匂いがした。
中は階段だった。
下へ続いている。
「ミオ」
「なに」
「宇宙人、空から来ない説、濃厚」
「うん」
「これ、企画タイトル変えた方がいいかな。『地底からこんばんは』とか」
「今じゃない」
「はい」
背後で枝が折れる音がした。
振り返る。
森の暗がりに人影はない。けれど、私たちが来た方向のフェンスの向こうで、いくつもの小さな光が揺れていた。懐中電灯。誰かが来ている。観光客か、管理者か、さっきの配信者グループか。
それとも、コメント欄の誰かか。
スマホは機内モードのはずなのに、ポケットの中で震えた。
画面には通知が一つだけ出ている。
《帰還口、開放》
私は無言でミオに見せた。
ミオの顔が青ざめる。プリンは扉の内側へ向かって吠えている。低音が強くなる。私の手の光も濃くなる。
逃げ道は三つあった。
森へ戻る。誰かがいる。
その場に留まる。地面が鳴っている。
地下へ降りる。論外。
私は論外を選んだ。
「降りる」
「本気?」
「上に誰がいるかわからない。下に何があるかもわからない。だったら、こっちから見に行く方がまだマシ」
「お姉ちゃんらしい雑な理屈」
「褒めて」
「生きてたら」
ミオがプリンを抱き上げ、私は金属扉を押した。
階段の下から、青い光が上がってくる。
階段は長かった。
最初は、古い軍事施設の地下通路に見えた。コンクリートの壁、錆びた手すり、剥き出しの配管、湿った匂い。
私は胸元のアクションカメラの録画ランプを確認した。赤い点は生きている。生配信ではない。ただの記録。画面の向こうに誰もいないことが、こんなに心細いとは思わなかった。
「お姉ちゃん、怖い?」
「怖くないと言えば嘘になるし、怖いと言うと足が止まるので、今は保留」
「保留、便利」
「大人の言葉だからね」
「逃げ道の言葉でしょ」
「妹の切れ味が地下でも落ちない」
ミオの声が少しだけ震えていた。私はその震えを聞いて、変に安心した。怖いのは私だけじゃない。なのに、ミオはカメラを止めない。証拠を残すと決めた人間の顔をしている。
しかし、二十段を過ぎたあたりから、壁のひび割れの奥に青い線が走り始めた。電線ではない。光そのものが、コンクリートの内側を血管みたいに流れている。
「これ、軍の設備じゃないよね」
「少なくとも観光パンフレットには載ってない」
「載ってたら英国の観光力すごい」
階段の終わりに、防火扉があった。
中央の丸い覗き窓の向こうに、青白い明かりが揺れている。
私はドアノブに手をかけようとして、止まった。
手が光っていた。
指の輪郭どころではない。手の甲の内側に、回路図のような青い線が浮かんでいる。
「ミオ」
「うん。見えてる」
「これ、病院案件?」
「地下施設案件」
「どっちも嫌」
扉の向こうから、足音が聞こえた。
ゆっくり。規則正しく。こちらへ近づいてくる。
私はミオを背中にかばうように立った。意味があるかはわからない。相手が銃を持っていたら終わりだし、光線銃でも終わりだし、そもそも姉の背中にどれだけ防御力があるのかは謎だ。
でも、体が勝手に動いた。
「お姉ちゃん、そういうの」
「今は言わないで」
「うん」
足音が止まった。
扉が内側から開く。
そこに立っていたのは、女だった。
背が高い。信じられないくらい白い肌。髪は銀色に近く、目は薄い灰色。黒い外套のような服を着ているが、その布地は布というより光を吸う膜に見えた。
地下の青い明かりの中で、幽霊よりも静かに立っている。
夢の中の白い顔。
手術台の上から見上げた、あの女。
女は私とミオを見て、少しだけ目を細めた。
「また会ったわね」
日本語だった。
流暢すぎる日本語。アクセントがほとんどない。むしろ、古い録音を磨き上げたように正確すぎる発音だった。
私は反射で返した。
「初対面の距離感じゃないんだけど?」
女は微笑んだ。
「その反射速度。記録と変わらない」
「記録?」
ミオの声が硬くなる。
女は視線をプリンへ移した。
「そちらは相変わらず敏感ね。プリン。いい名前をもらったわね」
背中が冷えた。
この女は、私たちだけでなくプリンのことも知っている。
「あなた、誰」
ミオが言った。
女は、ゆっくりと名乗った。
「ノクス。観測特使。あなたたちを一度、地上へ返した者」
地下の奥で、巨大な何かが目を覚ますように鳴った。
ブゥン。
私の手の青い線が、脈打つように明るくなった。




