第4話 宇宙人は空から来ない
朝になっても、森の青は消えなかった。
正確に言えば、見えなくなっただけだ。宿の窓から見えるレンデルシャムの森は、湿った緑と黒い幹を並べている。鳥が鳴き、犬を連れた地元の人が歩き、遠くの道路では車が規則正しく走っていた。
普通の森だ。
でも、私の目にはもう普通に見えない。
夜の底で、あの森は青く呼吸していた。
「寝てないね」
向かいのベッドで、ミオが言った。
「寝たよ。たぶん三十分くらい」
「それは寝落ち」
「現代人の睡眠なんて、だいたい寝落ちでしょ」
ミオは地図を広げ、昨夜の発光地点、古い目撃証言、私たちが見た白い女のフレームを重ねていく。
事件当時の証言は、どれも「空の光」を語っていた。
けれど、点と線を引くと妙だった。
光が見えた方角。兵士が移動したルート。地面に残った痕跡。昨夜、私たちが青い光を見た場所。
それらは上空ではなく、地表を指していた。
「これ、上を見てない」
ミオが言った。
「どういうこと?」
「みんな『空に光があった』って言ってる。でも実際に追ってる方向はこっち。木の上じゃなくて、木の間。しかも角度を逆算すると」
ミオの指が、森の北側で止まる。
「下から出てる」
宇宙人は空から来る。
UFOは上を見るもの。
人間は、救いも恐怖もだいたい空に置きたがる。
でも、昨夜の光は違った。足元から来た。
「空じゃないなら、何?」
「地下」
「地下にUFO?」
「UFOは未確認飛行物体。飛んでないなら、UFOではない」
「急に定義に厳しい」
「未確認地下物体」
「USOじゃん」
「嘘みたいだね」
「うまいこと言ったみたいな顔しないで」
私たちはレンデルシャムの観光施設へ向かった。
案内板、売店、UFOのイラストが入ったマグカップ、宇宙人型クッキー。世界規模の怪異も、四十年経つと土産物になる。人間はどんな謎でも最終的にはキーホルダーにできる。強い。
「見て、ミオ。UFO型クッキー」
「買うの?」
「資料として」
「胃に入る資料」
「糖分は調査の燃料だから」
売店の奥、古い地図の前に白髪の男性が立っていた。
首からボランティアガイドの札を下げている。ミオはこういう人を見つけるのがうまい。公式パンフレットに載っていない情報は、たいてい売店の隅か、資料室の古い棚か、やたら話の長い地元の人の中にある。
男性の名はハロルド・ホーソーン。
元は近くの基地で設備関係の仕事をしていたらしい。退職後、事件の資料を集めているという。
「昨夜、君たちは光を見たのか」
ハロルドは私の手を見た。
私は反射的に袖を下げる。今は光っていない。でも、見られた気がした。
「見ました。地面の下から」
ミオが言った。
ハロルドは驚かなかった。むしろ、長い間待っていた答えを聞いたように、ゆっくり息を吐いた。
「やはり、下か」
彼は資料パネルの裏手に私たちを招いた。
「公式には、光は森の中、または空に見えたことになっている。だが、古い証言には別の言い方が多い。『地面から漏れていた』『土の下を走った』『木の根が光った』。そう話した者は、後で発言を訂正した」
「誰に?」
「わからない。ただ、訂正の文言が似ている。見間違いだった。灯台の光だった。疲労による錯覚だった」
「テンプレ謝罪文みたい」
「謝罪ではない。忘却だ」
安全な形に直された記憶。
白い部屋の夢が、喉の奥に戻ってくる。
「白い女を見たことは?」
ミオが切り出した。
ハロルドの顔が変わった。
「どこでその話を」
「映像に、一フレームだけ」
「見たのか」
「たぶん」
ハロルドは周囲を見回し、声を低くした。
「昔からいる。軍でも警察でも観光客でもない。事件のあと、記録が消える前に、必ず白い女を見たという者がいる。彼女が来ると、人々は発言を変える」
「名前は?」
「地元の古い連中は、冗談半分でこう呼んでいた」
ハロルドは、私たちの端末画面に残ったファイル名を見た。
「ノクス。夜の使者だ」
ノクス。
ラテン語で夜。ミオが小さく補足した。
ハロルドは、古い封筒から一枚のコピーを出した。白黒の監視写真。粗い画質の隅に、白い人影が立っている。写真の日付は一九八一年。私たちが生まれるずっと前だ。
「彼女は歳を取らない。少なくとも、そう見える」
「それ、完全に怪談じゃないですか」
「怪談ならよかった。怪談は、信じない自由がある」
ハロルドはさらに、赤い点がいくつも打たれた地図を見せた。
「北側では、奇妙な口論や事故が多い。長くいると、人は怒りやすくなる。疑い深くなる。自分が何に腹を立てているのかわからないのに、誰かを責めたくなる」
「心理操作」
ミオの声が硬くなった。
「ただの低周波では?」
「そう思いたかった。だが、発生する場所と時間が都合よく変わる。まるで、誰かが人間の背中を一ミリだけ押しているように」
その時、売店の方で怒鳴り声が上がった。
最初は、よくある観光客同士のトラブルに見えた。列に割り込んだ、ぶつかった、写真に入った。旅先の疲労と自尊心が混ざった、小さな火種。
だが、火の回りが異常に早かった。
「だから先に並んでいたって言ってるだろ!」
「触らないで。あなた、今バッグを開けようとしたでしょう」
「撮影してる。証拠がある」
「消せ!」
十秒前までUFOクッキーを眺めていた人たちが、突然互いを疑い始めた。
子どもが泣き、店員が止めようとし、別の観光客がスマホを向ける。そのスマホに怒った誰かが手を伸ばし、さらに別の誰かが止める。
空気が、ざらつく。
コメント欄が荒れる瞬間と同じ匂いがした。
正しさを奪い合う匂い。
「お姉ちゃん」
ミオが耳を押さえた。
「来てる」
「低い音?」
「うん。下から。さっきより強い」
足裏にも、かすかな震えが伝わってきた。
ブゥン。
骨で聞く音。
売店の照明が一瞬ちらつき、怒鳴り声がさらに大きくなる。
出口へ向かう途中、若い男性が私たちの前に立ちはだかった。スマホをこちらに向けている。
「昨日の人ですよね? 青く光った配信の」
「違います」
「声でわかる。あれ、仕込みですか? ここでまた何かやるんですか?」
普段なら、笑って流す。
皮肉で返す。
でも、その瞬間だけ、喉の奥に熱いものが上がった。何も知らないくせに。私たちは怖い思いをしている。眠れていない。自分の手が光った理由もわからない。
腹が立った。
立ちすぎた。
私の袖を、ミオが掴んだ。
「お姉ちゃん。音」
はっとした。
これは本当に私の怒りか。
足裏から伝わる震えが、心臓のリズムに似た速さで鳴っている。周囲の人々も、妙に鋭い声を出している。
誰もが、自分が正しいと信じて疑っていない。
「ごめん。今の私、だいぶ釣られてた」
「うん」
「ありがとう。あとで褒めて」
「生きてたら」
「そこは今すぐ褒めて」
外へ出ると、胸の圧迫感が少し弱まった。
その瞬間、売店のガラスに白い影が映った。
人混みの中で転びかけた子どもを、白い女が支えていた。
誰も彼女を見ていない。
監視カメラの赤いランプが一瞬消え、次に点いた時には、女の姿はなかった。
ミオのスマホが震えた。
黒いアイコン。差出人名は空欄。
《二十三時四十六分。北側。帰還口で待つ》
続けて、もう一行。
《ただし、これは招待ではない。最後の警告だ》
「行くなって言ってる人が、待つって言ってる」
私は画面を見つめた。
「情緒が不安定なストーカー?」
「たぶん違う」
「じゃあ、情緒が不安定な未来人?」
「まだ未来人とは言ってない」
「じゃあ何なの」
ミオは森の北側を見た。
「警告してるのか、誘導してるのか、まだわからない。でも、少なくとも私たちのことを知ってる」
プリンが小さく鳴いた。
その声は、行きたくないと言っているようにも、行かなければいけないと言っているようにも聞こえた。
私はスマホを握り、真っ黒なアイコンを睨む。
「じゃあ、今夜は配信なし」
「いいの?」
「いい。コメント欄に足を引っ張られるのはごめんだし、誰かの誘導に視聴者を巻き込むのも嫌」
「記録は?」
「回す。全部、こっちで残す」
私はそこで初めて、自分が配信者ではなく証人になろうとしていることに気づいた。




