第3話 青く光る姉
人間、自分の手が青く光ると、意外と何も言えなくなる。
配信者としては致命的だ。怪奇現象が起きた瞬間こそ、声を張って、状況を説明して、視聴者を引き止めるべきなのに、私は自分の指先を見つめたまま固まっていた。
青い光は熱くなかった。
むしろ冷たい。体温が外へ逃げていくみたいな、嫌な冷たさだった。
《レイナ光ってる》《加工?》《いやリアルタイムでこれは無理》《逃げて》《プリン吠え方ガチ》
コメント欄だけが、生き物みたいに流れていく。
ミオが地面に膝をついた。
「下から、呼んでる」
「誰が」
「わからない。でも、言葉みたいに聞こえる」
プリンが吠えた。短く、鋭く、必死な声。
地面の青が強くなる。空ではない。森の奥でもない。光は、足元から上がってくる。
私はカメラを握る手に力を込めた。笑わなければ。喋らなければ。黙ったら怖さが本物になってしまう。
「ちょっと待って。地面、光ってる。光ってるよね?これ現実? ミオ、プリン、みんな見えてる? いや落ち着け、落ち着けレイナ。……無理。足元が発光してるんだけど」
「光ってるね」
「短っ!」
コメント欄が、ほんの少しだけ笑いを取り戻した。
《この状況で漫才すな》《でも助かる》《いや怖い》《音やばい》《配信切って》
次の瞬間、映像にノイズが走った。
横線ではない。画面の奥から、誰かの手が伸びて映像を撫でたような歪み方だった。スマホが熱を持つ。バッテリー表示が一気に減る。
ミオが叫んだ。
「お姉ちゃん、離れて!」
地面の乾いた円が割れた。
大きな亀裂ではない。落ち葉の下、土の表面が細く開き、そこから青白い光と低い音が吹き上がる。
風ではない。
音なのに、肌に触れた。
その音の底で、誰かが言った。
おかえり。
私はカメラを抱えたまま後ろへ倒れた。ミオが腕を掴む。プリンが吠える。コメント欄が滝のように流れる。
その全部が遠ざかる直前、私は自分の口が勝手に動くのを感じた。
「……ただいま、って言えばいいの?」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
配信はそこで途切れた。
公式には、機材トラブルということにした。公式って何だ。私たち二人しかいないのに。
宿に戻った私は、濡れた靴も脱がずに床へ座り込んだ。ミオがタオルを投げてよこす。プリンはミオの膝の上で丸まっているが、震え方がいつもより細かい。
「録画、残ってる?」
「確認する」
ミオがノートパソコンを開く。
配信アーカイブは途中で途切れていた。私の手と輪郭が青く光るところまでは、はっきり映っている。コメント欄も残っている。
でも、地面が割れた瞬間だけ、映像が乱れて判別できない。
「一番大事なところが、いつもこう」
私は笑った。笑ったつもりだったが、声は掠れていた。
「でも、青く光ったのは残ってる」
「うれしくない証拠第一位」
「コメントもある」
「コメントは証拠能力が弱い。『見た』と『草』が同じ速度で流れる世界だよ」
ミオは画面から目を離さなかった。
音声波形を拡大している。青い光が強くなった瞬間、低い波がひとつ、太く記録されていた。
「この周波数、耳で聞こえる範囲じゃない」
「じゃあ何でミオには聞こえたの」
「わからない」
わからない、という言葉が、こんなに怖いとは思わなかった。
SNSの通知は、宿の部屋の静けさを平気で破ってきた。
《ガチ映像》《いや加工》《海外まで行って自作自演》《妹の反応が演技っぽい》《犬がかわいそう》《犬が何か知ってる》
最後の一文だけ、他の罵倒よりずっと嫌だった。
プリンはミオの膝の上で丸まっている。いつものプリンだ。震えて、鼻を鳴らし、たまにミオの手をなめる。なのに、画面の向こうの誰かが「犬が何か知ってる」と書いた瞬間、私はプリンを普通の犬として見られなくなった。
「アーカイブ、非公開にする?」
ミオが聞いた。
私は首を振った。
「残す。消したら、消したことまで物語にされる」
「物語に負ける?」
「うん。真実って、証拠がないと噂より弱い」
自分で言って、ぞっとした。
私たちは今まで、噂を面白がる側にいた。都市伝説を安全な距離から眺めて、怖がって、笑って、動画にしてきた。
でも、いま私たちは噂の中にいる。
窓の外で、風が枝を叩く。普通の夜の音。なのに、耳の奥にはまだあの低い音が残っている。
「聞こえた?」
ミオが言った。
「何が」
「おかえり、って」
私は答えなかった。
答えたら、認めることになる。自分にも聞こえた、と。
「今日は寝る」
「解析は?」
「明日。これ以上やったら、うちらが都市伝説側になる」
「もうなってるかも」
「そういう名言っぽいことを低い声で言わない」
ベッドに倒れ込む。
青く光った腕には、何の跡も残っていない。痛みもない。だから余計に気持ち悪かった。
目を閉じる直前、プリンと目が合った。
ミオの腕の中で、プリンはじっと私を見ていた。
その目は、ただ怯えているだけには見えなかった。
夢を見た。
白い光だった。
森の青とは違う。もっと近くて、もっと冷たい。まぶたの裏から差し込むような白。
私は小さかった。
手足が細い。声が高い。泣いている。
冷たい台の上に寝かされ、腕と足を固定されている。隣の台では、幼いミオが泣きながら私を呼んでいた。
お姉ちゃん。
お姉ちゃん。
返事をしようとしても、喉が動かない。
上から誰かが覗き込む。白い肌。銀色に近い髪。暗い目。
顔の輪郭はぼやけているのに、その声だけがやけにはっきりしていた。
「恐怖反応、想定値を超過」
別の声が答える。
「処置を続行せよ」
「……了解」
遠くで犬が鳴いている。
細く、必死に、何度も。
私はその声の方へ顔を向けようとする。だが白い光が強くなり、何も見えなくなる。
最後に、冷たい指が額に触れた。
「また会いましょう」
私は跳ね起きた。
息が荒い。額に汗が滲んでいる。部屋は暗い。隣のベッドで、ミオも起き上がっていた。
目が合う。
ミオの顔から血の気が引いている。
「白い光」
ミオが言った。
「冷たい台」
「犬の声」
「……泣いてるミオ」
「泣いてるお姉ちゃん」
二人とも、それ以上言えなかった。
プリンがベッドの足元で震えている。声も出さず、ただ頭を低くして、何かを待つように。
翌朝、ミオはアーカイブの最後のフレームを一枚ずつ切り出した。
ノイズ、青い光、崩れた映像、歪んだ私の顔。何も映っていないように見えた。
しかし、ミオが色を反転させた時、画面の隅に何かが立っていた。
白い女。
森の奥、木々の間。
こちらを見ている。
「これ、配信中にいた?」
「映像上は、一フレームだけ」
「観光客?」
「こんな夜中に?」
「まあ、うちらもいるけど」
ミオは黙ったまま、画像を拡大した。
女の顔は荒れていて見えない。ただ、黒い外套のようなものを着ているのはわかる。
その姿は観光客の格好ではなかった。軍関係者にも見えない。何より奇妙なのは、ノイズの中で彼女だけがぶれていないことだった。森も私もミオも、映像の歪みに引き裂かれているのに、白い女だけがそこに固定されている。
「映像が壊れてる場所に、壊れてない人がいる」
ミオが言った。
「言い方が怖い」
「でも、そう」
メタデータはほとんど空だった。位置情報も、端末情報も、作成時刻も消えている。ただ一つだけ、自動生成されたファイル名が表示されていた。
NOX_0001
「ノックス?」
私が読み上げると、プリンが低く唸った。
「知ってるの?」
私はプリンに聞いた。
プリンは答えない。ただ、ミオの膝から降りようとしなかった。怯えているのに、逃げない。その矛盾が、妙に引っかかった。
画面が一瞬だけ黒くなる。
次に表示されたコメントは、黒いアイコンからだった。
《彼女を探すな》




