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第2話 おかえりなさい、英国

ヒースロー空港の到着ロビーは、眠気と英語とスーツケースの車輪音でできていた。

 長時間フライトで体は重い。機材バッグはもっと重い。プリンは専用キャリーの中で、時差など関係なく震えている。


「ミオ、生きてる?」

「たぶん」

「たぶんは危ないな。パスポートの顔と今の顔、一致する?」

「魂がずれてる」

「入国審査で言わないでね」


 私はスマホを取り出し、短い到着報告を録画した。

「はい、無事に英国到着しました。現地はどんより。私たちもどんより。プリンは通常運転で震えております」

 録画を止めた、その直後だった。

 頭上の液晶案内板がちらついた。

 便名とゲート番号を表示していた画面が、一瞬だけ真っ黒になる。

 そして、白い文字が出た。


 WELCOME BACK


「……え?」

 見上げた時には、もう元の表示に戻っていた。

 ミオも同じ方向を見ている。プリンはキャリーの中で小さく唸った。


「今の」

「見た?」

「見た」

「英国式の歓迎、圧が強いね」

「お姉ちゃん」

「わかってる。今のは変。でも変って認めると空港で変な人になるから一旦飲み込む」


 録画には残っていなかった。

 私が撮影を止めた直後。証拠がない。配信者にとって最悪の怪異である。


「目撃者は二人と一匹」

「一匹は証言能力が弱い」

「かわいいから採用」

「裁判長がミオすぎる」


 空港からサフォークへ向かう道中、景色は少しずつ都市から田園へ変わった。低い雲。濡れた道路。冬枯れの木々。日本の湿った寒さとは違う、骨の隙間に入るような冷たさがある。

 ミオは一度も眠らなかった。窓の外を見て、ときどき耳の後ろを押さえる。


「何か聞こえる?」

「まだ」

「まだ、って言い方やめない?」

「でも、近づいてる感じはする」

「何に」

「夢の中の音」


 その言葉で、私は笑い損ねた。

 夢の中の音。

 白い光。冷たい台。犬の鳴き声。

 知らないはずの言葉が、英国の曇り空の下で少しずつ形を持ち始める。


 宿は森から車で少し離れた古いゲストハウスだった。白い壁、低い天井、軋む床。窓からは、裸の枝が夜空に黒く伸びているのが見えた。

 荷物を置くなり、私はベッドに倒れ込んだ。


「終わった。英国ロケ、第一部完。主演、私の腰」

「まだ何も始まってない」

「始まる前に終わるものもある」


 ミオはノートパソコンを開いて、現地の地図を表示する。疲れているはずなのに、手つきだけは妙に早い。


「今日の夜、下見だけする?」

「今から?」

「配信は明日でもいい。場所だけ確認したい」

「ミオさん、時差ボケって知ってる?」

「都市伝説?」

「現実」


 五分後、私たちは森にいた。

 妹を一人で行かせる選択肢はない。姉としても、配信者としても、単純に心配性としても。


 夜のレンデルシャムの森は、観光写真とは別物だった。

 遊歩道も案内板もある。事件を説明する看板も立っている。けれど日が落ちると、人工物は急に頼りなくなる。木々は高く、空を細く切り取り、風が枝を揺らすたび、誰かが遠くで囁いているような音がした。

 私はカメラを回したが、配信はまだ始めなかった。


「下見だけ、下見だけです。今の私は理性ある大人なので」

「三分後には配信してそう」

「信頼がない」

「実績」


 ミオが足を止めた。

 プリンも同時に止まった。私だけが二歩ほど進んでから振り返る。


「どうしたの」

「ここ」

 ミオは地面を見ていた。

 湿った土。落ち葉。木の根。特に変わったものはない。

「音がする」

「さっきの?」

「うん。下から」


 プリンが低く唸った。

 小さな体からは想像できないほど、切実な声だった。

 その時、私のスマホが勝手に点灯した。通知ではない。着信でもない。画面には配信アプリの開始画面が表示されていた。


「……私、押してない」

「知ってる」


 開始ボタンが、ひとりでに赤く光った。

 私は反射的にスマホを伏せた。心臓が一度だけ強く跳ねる。次に画面を見た時には、アプリは閉じていた。

 いつものホーム画面。

 何事もなかったような顔で、時計だけが現地時間を示している。


「帰ろう」

 今度はミオが先に言った。

「うん。帰る。今のは撮れ高じゃなくて、普通に嫌」


 背中を向けた瞬間、見られている気がした。

 森に、ではない。

 地面の下に。


 翌日の昼、私はいつもの調子を取り戻していた。正確には、取り戻したふりをしていた。

 宿の食堂で固いパンと紅茶を前に、カメラに向かって明るく喋る。


「昨日の夜は、下見のつもりが普通に怖くなって帰りました。プロの判断です。逃げ足の速さも配信者の技術」


 録画を止めると、ミオが静かに言った。

「昨日のスマホのやつ、ログがない」

「便利な怪異だなあ。証拠を残さないタイプ、配信者に一番向いてない」


 ミオは地図に赤い丸をつけていた。昨夜、音がした場所。

 私は紅茶を飲み、喉の奥に残る不安を流し込もうとした。流れなかった。


「今日の本配信、やめる?」

 ミオが言った。

 あれほど行きたがっていた妹が。


 私は一瞬、そうしようと言いかけた。

 でも、海外ロケの告知はもう広がっている。待機所には期待のコメントが溜まっている。中止すれば理由を説明しなければならない。

 怖いからやめました。

 そう言えたら、どれだけ楽だろう。


「やるよ」

 私は笑った。

「昨日のは昨日。今日は準備して、安全第一でやる。大丈夫。私がいる」


 ミオは、しばらく私を見ていた。

「無理してる?」

「してない」

「即答」

「即答できるくらいしてない」

「怪しい」


 午後、私たちは明るい森を撮影して回った。

 事件の案内板、かつて米軍基地があった方向、観光客向けのパンフレット。私はいつもの調子でカメラに向かって喋り、ミオが補足し、プリンが画面の端で震える。いつもの二人と一匹。画面の中では、少なくともそう見える。


 けれど、撮影の合間に通知欄だけが妙だった。

《森の北側へ行くな》

《北側へ行け》

《戻ってきたなら扉を開けろ》

《青い光は、あなたの中にある》


 同じ秒に、別々のアカウントから似た文体のコメントが流れる。ボットのようで、でも全部がボットではない。人間が、誰かの投げた石を拾って投げ始めている感じがした。


「コメント欄が、誰かに下書きされてるみたい」

 ミオが言った。

「嫌な表現、優勝」

「お姉ちゃんの声も、もう切り抜かれてる」

「配信者なので」

「違う意味で」


 ミオが見せた画面には、私の昨夜の録画を使った短い動画があった。タイトルは英語だった。

 WELCOME BACK GIRL.

 投稿日は、私たちが英国に着く前になっていた。


 その夜。

 配信開始五分前、森の入口で私は深呼吸した。

 スマホの画面には待機コメントが流れている。


《待ってた》《英国ロケ助かる》《プリンいる?》《レンデルシャム現地は熱い》

《今日こそUFO来い》


「来なくていいんだけどな」

 私は小さく呟く。

 ミオが隣でマイクの接続を確認している。


「お姉ちゃん」

「ん?」

「怖かったら、切っていいから」

「それ、私の台詞じゃない?」

「今日は私の台詞」


 配信開始。

 リングライトの白、暗視カメラの緑、森の黒。その全部を背負って、私はいつもの声を出した。


「はいどうもー。都市伝説と経費精算の狭間からこんばんは、天羽レイナでーす」


 コメント欄が一気に加速した。

 同接の数字が跳ねる。恐怖と高揚が、同時に胸に火をつける。

 私はこの瞬間が好きだ。

 暗闇の中でも、画面の向こうに人がいる。その実感だけで、足が前へ出る。


 森の奥へ進むにつれて、空気が変わった。

 耳の奥が詰まる。歯の根元がむずむずする。ミオが何度も耳を押さえた。


「ミオ、大丈夫?」

「近い」

「何が」

「昨日の音」


 プリンがキャリーから飛び出した。

「プリン!」

 私は慌ててリードを掴む。小さな体は、信じられない力で地面の一点へ向かっていた。

 昨夜、ミオが足を止めた場所。


 コメント欄がざわつく。

《音?》《こっちには聞こえない》《レイナ、なんか光ってない?》《青い》


 私は自分の手を見た。

 指の外側に、細い青い光がまとわりついていた。

 火花ではない。照明でもない。皮膚の内側から、冷たい光が染み出している。


「……え」

 ミオが顔を上げる。

 プリンが、地面へ向かって吠えた。


 足元の土が、青白く滲み始めていた。

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