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第1話 経費で落ちるなら英国へ

うちのチワワが敵側だと判明するまで、あと三日。

 もちろん、その時の私はそんなこと知らない。

 知っていたら、渡航用キャリーの中で震えているプリンに「英国デビューだよ、緊張してんの?」なんて呑気に話しかけなかったし、そもそも航空券を取らなかった。いや、取ったかもしれない。私、数字に弱いので。


「ミオ。私は今、非常に重要な局面に立たされています」

「また請求書?」

「違う。文明との戦い」

「負けそう?」

「だいぶ」


 都内某所、雑居ビル三階。

 都市伝説系姉妹VTuberユニット〈あまはね未確認通信〉の配信用スタジオは、今日も平和に散らかっていた。リングライト、カメラ、配線、未確認生物のぬいぐるみ、食べかけのグミ、請求書、領収書、見て見ぬふりをしている税理士さんからのメール。

 登録者数は百八十万人。

 数字だけ見れば、たぶん成功者だ。けれど、数字には鮮度がある。最近の再生数は伸び悩んでいた。コメント欄は優しい。優しすぎる。内輪の愛でふかふかになったチャンネルは、外から見ると入り口が見えない。


「このままでは、私は『ついに判明』をサムネに入れすぎた女としてインターネット史に残ってしまう」

「もう残ってる」

「早いよ、歴史」


 床に座ったミオは、膝の上にプリンを乗せて資料を読んでいた。

 妹の天羽ミオ。私より二つ下。配信では柔らかい声で核心を刺すタイプ、オフではだいたい無表情で核心だけ刺すタイプ。姉が風船なら妹は針、とリスナーに言われている。

 そして膝の上のプリン。薄茶と白のチワワ。名前の由来は「色がプリンだから」。ミオが三日悩んだ末に出した結論としては、だいぶ食べ物寄りだった。


「次の大型企画」

 ミオが一枚の紙を掲げた。

 森の写真。英語の資料。赤い付箋。

「レンデルシャム」

「出た。ミオが最近ずっと見てるやつ」

「英国のUFO事件。一九八〇年十二月、米軍基地の近くの森で、光る物体が複数日にわたって目撃された。軍関係者の証言も残ってる。ロズウェルがアメリカなら、レンデルシャムは英国」

「はい、オカルト講座ありがとうございます。で、国内ロケでは?」

「現地じゃないと意味がない」

「海外は高い」

「経費」

「その二文字で人を動かせると思ってる?」

「動いたことある」

「あるんだよなあ」


 私は会計ソフトを睨んだ。

 航空券、宿、通信費、現地移動、プリンの渡航手続き。高い。普通に高い。けれど、現地ロケという言葉の強さもわかっていた。英国。UFO。深夜の森。姉妹配信。犬つき。サムネがもう浮かぶ。


「ミオ、そんなに行きたいの?」

「うん」

「なんで?」


 そこで、ミオの指がプリンの背中で止まった。

 プリンはいつも通り震えている。散歩でも震えるし、掃除機でも震えるし、宅配便でも震える。震えの理由を特定できない犬である。


「小さい頃から、同じ夢を見る」

「夢?」

「白い光。冷たい台。誰かの手。犬の鳴き声」


 笑おうとして、失敗した。

 その単語を、私は知らないはずだった。なのに、胸の奥で何かが小さく鳴った。冷たい台。白い光。犬の声。まるで忘れたくて忘れていた引き出しに、誰かが指をかけたみたいに。


「それがレンデルシャムと関係あるって?」

「わからない。でも、この事件の資料を読むと、その夢の匂いがする」

「匂いって」

「比喩」

「知ってるけどさ」


 ミオは顔を上げた。

「行けば、わかる気がする」


 姉としては、危なそうなものから妹を遠ざけるべきだと思う。

 配信者としては、これ以上ない企画だとわかる。

 経営者としては、費用対効果を計算するべきだ。

 そして私個人としては、その夢の話をこれ以上聞きたくなかった。

 結局、私は一番軽い言葉を選んだ。


「よし」

 ホワイトボードに太いペンで書く。

 英国ロケ。

 その下に二重線。

「経費で落ちるなら行こう」

「落ちる?」

「落とす」

「強い」

「姉だからね」

「関係ある?」

「あることにして」


 プリンが「きゅ」と鳴いた。

 その声が、ほんの少しだけ不安そうに聞こえた。


 出発準備は慌ただしかった。

 撮影許可、宿、予備バッテリー、海外用SIM、プリンの書類。やることは山ほどあるのに、私の頭の中ではタイトル案ばかりが増えていく。


「『英国最大のUFO事件、現地で検証したらヤバすぎた』」

「弱い」

「弱いの?」

「ヤバすぎたが弱い」

「じゃあ『現地で青い光を見ました』」

「まだ見てない」

「見るかもしれない」

「願望を過去形にしない」


 ミオは淡々と資料を積み上げていく。

 事件当時の目撃証言、基地の位置、森の地図、古い新聞記事、地元の噂。スタジオの机は、いつの間にか作戦本部になっていた。

 私はプリンのキャリーを組み立てながら、ふと思った。

 チワワに秘密があったら、それはもう都市伝説ではなく家庭内ミステリーだ。


 出発前夜、ミオは資料を抱いたままスタジオの床で寝落ちした。

 眼鏡も外さず、付箋だらけのレンデルシャム地図を胸に乗せている。私は毛布をかけ、プリンを抱き上げた。プリンはいつものように震えている。だけど、その目だけが妙に冴えていた。


「プリン。あんたは気楽でいいね。怖かったら震えてればいいんだもん」


 プリンは返事をしない。代わりに、スタジオの隅を見た。

 防音材を貼っただけの、何もない壁。そこに何かがいるみたいに。


「……まさかね」


 私は笑った。チワワに秘密があったら、それはもう都市伝説ではなく家庭内ミステリーだ。しかも容疑者が可愛すぎる。

 でもその夜、私は一度だけ変な夢を見た。

 白い天井。冷たい台。ミオの泣き声。遠くで吠える犬。誰かの白い指が、私の額に触れる。

 目が覚めた時、私はなぜか自分の手首を握っていた。そこに拘束具の跡なんてあるはずもないのに、皮膚の奥が冷たかった。


「寝不足で海外ロケ、いちばんよくない」


 そう自分に言い聞かせ、私はスマホを開いた。

 その夜、配信用アカウントに一件のコメントがついた。

 黒い丸だけのアイコン。ユーザー名は空欄。本文は、日本語だった。


《森の北側へ行くな》


「ミオ、これ見た?」

「見た」

「海外ロケ告知した瞬間にホラー演出してくる視聴者、仕事が早い」

「でも、投稿元が取れない」

「取れないって?」

「普通のアカウントじゃない。作成日も、地域も、履歴も空白」


 私は画面を睨んだ。

 コメントは、すぐに消えた。

 消えたのに、次の瞬間、別の場所に同じ文章が現れた。コミュニティ投稿、ショート動画のコメント欄、切り抜き師さんの告知ポスト。


《森の北側へ行くな》


 そして、最後にもう一行。


《青い光を追うな。彼女はまだ、あなたたちを覚えている》


「彼女って誰」

 私が聞くと、ミオは答えなかった。

 代わりに、コメントのスクリーンショットを三つの端末に保存した。手つきが淡々としている。怖がっていないのではない。怖がる前に証拠を確保しているのだ。


「行くの、やめる?」

 私が言うと、ミオは少しだけ考えた。

「やめたら、このコメントの意味がわからないままになる」

「わからないままの方が幸せなこともあるよ」

「ある。でも、もう読んだ」


 読んでしまったものは、読まなかったことにできない。

 都市伝説も、請求書も、たぶん人生も同じだ。


 プリンだけが、部屋の何もない隅へ向かって低く唸った。

 その隅にはリングライトの影が落ちていた。揺れるはずのない影が、一度だけ、人の形に伸びた気がした。

 私は見なかったふりをした。

 でも、ミオは見ていた。


 その時の私はまだ知らなかった。

 その黒いアイコンの向こうに、白い女がいることを。

 そして、その女が、私たちを一度この世界へ返した張本人だということを。


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