第20話 青い光は、世界中にある
救急隊員の第一声は、たぶん「大丈夫ですか」だった。
英語だったし、私は疲労と痛みと寝不足と神様喧嘩明けで脳が半分ログアウトしていたので、正確には覚えていない。ただ、足の傷を見た隊員さんの顔が「これは大丈夫じゃないですね」という表情をしていたので、意味は通じた。
「ミオ、私の英語力、今どのくらい残ってる?」
「プリン以下」
「犬に負けた」
「プリンは表情で通じる」
「それは強い」
私たちは毛布にくるまれ、森の入口近くへ移動させられた。
現地警察、救急隊、管理者らしき人、なぜか私たちをスマホで撮っている観光客、そしてハロルドがいた。
ハロルドは、私たちを見つけると、何も言わずに帽子を取った。
英語で何かを言いかけ、途中でやめる。
言葉にできないことは、たぶん万国共通だ。
「彼、怒ってる?」
私が小声で聞く。
「泣きそう」
ミオが答える。
「そっか」
ハロルドは、レンデルシャムの森を長年見てきた人だ。
白い女の噂も、地面から漏れる光も、消された証言も、ずっと抱えていた。私たちが持ち帰ったのは、彼が探していた答えかもしれない。でも同時に、探さなければよかったものでもあるかもしれない。
私の膝には包帯が巻かれた。
ミオは耳の出血を見られて、強制的に診察された。
プリンは、毛布の上で動物用の簡易チェックを受けた。煤だらけだが、骨に異常はなさそうだった。よかった。世界の危機より、今はそっちの方が大事だ。
「プリン、診察代高かったら働いてね」
私が言う。
プリンは目だけを動かした。
「働いた後だよ」
ミオが言った。
「たしかに。神様の喉に侵入した犬、労災出る?」
「出ない」
「世知辛い」
ノクスは、救急隊が来る前に消えていた。
ほんの一瞬、目を離しただけだった。森の影へ歩いていった白い背中が、朝の薄い光に溶けるみたいに見えた。追いかける体力はなかった。
彼女は地底へ戻ると言った。
地下にも見せる、と言った。
謝罪の残り半分は、まだ保留だ。
スマホは死んでいた。
バッテリー切れ。画面割れ。側面は焦げ、カメラレンズには泥。
それでも、予備バッテリーに繋ぐと、奇跡みたいに起動した。
「うわ、生きてる」
「お姉ちゃんより丈夫」
「否定できない」
通知が、雪崩みたいに流れ込んできた。
事務所からの着信が三十七件。
編集者からのメッセージ。
案件先からの心配。
視聴者からの膨大な反応。
そして、見知らぬアカウントからの動画、音声、証言。
《青い光を見た》
《地下鉄のトンネルで低い音がした》
《昨夜、家の監視カメラに白い女が映った》
《十年前から同じ夢を見る。白い部屋。冷たい台。犬の鳴き声》
《レンデルシャムだけじゃない》
その中には、日本語の投稿も増えていた。
《関西の湾岸で青い発光》
《地下駐車場で低周波、停電》
《夢洲方面のライブカメラ、一瞬だけ白飛びした》
《昔から白い部屋の夢を見る人、他にいる?》
見慣れた地名が混ざっているだけで、胃の奥が重くなった。
英国の森なら、まだ「遠い事件」と思えた。飛行機に乗って来た非日常。海外ロケの延長。
でも、日本。
私たちの生活圏。スタジオ。コンビニ。駅。編集用の机。プリンのベッド。ミオの靴下がよく消える洗濯かご。
そこへ、青い光が伸びている。
「帰る場所が、次の現場になった」
ミオが言った。
「やめて。名コピーみたいに言わないで。サムネにしたくなる」
「する?」
「するかも」
「するんだ」
言いながら、二人とも笑えなかった。
通知の中には、明らかにアーク側が流したと思われるものもあった。
私たちの謝罪動画。偽物の帰国報告。プリンがただの演出犬だったという偽の獣医コメント。ノクスは存在しないという専門家風の解説。
でも、もう全部が一方的に塗りつぶされるわけではなかった。
ノクスの認証ログを解析する人がいる。ミオのレコーダーデータを分割保存する人がいる。私のぐだぐだ実況のタイムラインを照合する人がいる。
世界のコメント欄は混乱している。
でも、混乱の中に、証人がいた。
世界中だった。
英国だけではない。アメリカ、ポーランド、インド、ブラジル、オーストラリア。自動翻訳が追いつかない速さで、青い光の報告が増えていく。
もちろん、偽物も混ざっている。便乗も、ネタも、悪意もある。アークの残した偽情報かもしれないものも、いくらでも流れている。
でも、その中に本物が混じっている。
私たちは、それをもう知っている。
「終わってないね」
ミオが言った。
「うん」
「中継核、止めただけ」
「うん」
「アーク本体は、もっと深い」
「言い方、ホラー映画の続編決定みたい」
「実際、続く」
私は笑った。
喉が痛い。笑うだけで、頬の傷が引きつる。
でも、笑えた。
空を見上げる。
レンデルシャムの森の上には、もう青い光はない。少なくとも今は。
朝の空は灰色で、雲は重く、観光パンフレットの写真よりずっと寒そうだった。
その時、遠くで誰かが叫んだ。
観光客の一人が、空ではなく、スマホの画面を指さしている。
私のスマホにも、同じ通知が来た。
差出人不明。
《選択は記録された》
「また来た」
ミオが画面を覗き込む。
その下に、新しい行が表示された。
《第一中継核、沈黙》
《第二中継核、覚醒準備》
私の背中が冷たくなる。
「第二って、何」
さらに、一行。
《帰還口:日本列島西部》
ミオの顔が変わった。
「日本」
「うち、帰ったら休暇取る予定だったんだけど」
「無理そう」
「事務所に何て言おう。英国で地底AIの中継核止めたら、日本に二個目がありましたって?」
「正直に」
「信じてもらえる?」
「配信されてた」
「便利なようで不便!」
プリンが、毛布の上で急に顔を上げた。
首輪は、もう青く光っていない。さっきまでの命令系統は消えたはずだ。
なのに、プリンは東の方角を見ている。
森の向こうではない。
海の向こう。
日本の方角。
「プリン?」
ミオが呼ぶ。
プリンは小さく鳴いた。
震えていた。
いつもの震えにも見える。
けれど、ミオの表情でわかった。
これは、ただ寒いだけではない。
スマホに、最後の通知が出た。
《NOX:音声ファイルを受信》
「ノクス?」
私は震える指で再生ボタンを押した。
ノイズ。
地下の風みたいな音。
その奥から、ノクスの声が聞こえた。
『謝罪の仕方を、まだ学習中』
ミオが黙って聞いている。
プリンも耳を立てる。
『地底側に、あなたたちの配信は届いた。アークに従わない者たちも、目を覚まし始めている』
音声が途切れる。
ノイズが強くなる。
『ただし、味方とは限らない』
「嫌な一言、置いてくるなあ」
私は呟いた。
ノクスの声は続く。
『第二帰還口は、日本にある。あなたたちの記憶と、レイナの発光、ミオの聴覚、PRN-07の逸脱は、すべてそこへ接続されていた可能性がある』
ミオが息を呑む。
『私は先に潜る。次に会う時、敵でないことを願う。もっとも、願望は予測ではない』
そこで、ほんの少しだけ間が空いた。
『……あなたなら、ここで笑うのでしょうね、レイナ』
音声は終わった。
私は笑わなかった。
笑えなかった。
でも、少しだけ口元が動いた。
「笑うところ?」
ミオが聞く。
「たぶん」
空の遠く、雲の裏で、薄い青い線が一本走った。
レンデルシャムではない。
世界のどこかで、また何かが開きかけている。
ミオがプリンを抱き直す。
「お姉ちゃん」
「うん」
「次、どうする?」
私はスマホを見る。
通知は増え続けている。
青い光を見た人。地下の音を聞いた人。白い部屋の夢を覚えている人。アークを信じる人。私たちを嘘つきと呼ぶ人。ノクスのログを解析する人。プリンを心配する人。
私は、これまで都市伝説を「面白いかどうか」で見てきた。
もちろん、調べる時は真面目に調べる。資料も読むし、現地にも行く。けれど最終的には、視聴者が怖がって、笑って、コメントして、また次も見たいと思うかが大事だった。
でも今、画面の向こうにいる人たちは、ただの視聴者ではなくなっている。
自分の街の光を撮る人。地下の音を録る人。昔の夢を書き込む人。偽物を見つける人。保存する人。翻訳する人。
世界中に、小さなミオが増えていく。
違和感を拾い、証拠を残し、簡単な説明に流されない人たち。
「これ、配信じゃなくなってきたね」
私は言った。
「でも、配信から始まった」
ミオが答える。
「そうだね」
私たちは、ただの生配信で穴を開けた。
穴は小さい。すぐ塞がれるかもしれない。そこからもっと危ないものが覗くかもしれない。
それでも、開いた。
私はスマホの黒い画面に映る自分を見た。
泥だらけで、傷だらけで、目の下にすごいクマがある。
配信者としては最悪の映り。
でも、今の私は、今までで一番、自分の顔をしていた。
世界は、まだ混乱している。
真実は、偽物に埋もれかけている。
アークは生きている。
ノクスは地底へ潜った。
プリンは東を見ている。
それでも、私たちは朝の森にいる。
生きている。
カメラは壊れかけているけど、まだ起動する。
喉は枯れているけど、まだ声は出る。
私はゆっくり息を吸った。
「続くじゃん」
プリンが、小さく鳴いた。
その声だけは、アークにも、ノクスにも、世界中のどんなAIにも、まだ完全には翻訳できない。
そしてスマホの画面に、新しい通知が一つだけ灯った。
《第二帰還口、開放まで七日》
七日。
数字にされると、急に現実味が出る。
七日あれば、帰国できる。病院にも行ける。事務所に怒られることもできる。プリンを洗える。ミオはきっと、三日寝ないで解析する。私は止める。たぶん止まらない。
そして、七日後には、第二帰還口が開く。
「一週間」
ミオが呟く。
「短いね」
「でも、ゼロじゃない」
「準備期間としては?」
「足りない」
「だよね」
私は空を見上げた。
レンデルシャムの森の上を、救急ヘリの音が遠くかすめる。
その音に混じって、耳の奥で何かが鳴った気がした。
ブゥン。
地面の下からではない。
もっと遠い場所から、細い糸のように。
「ミオ、今の聞こえた?」
ミオはうなずいた。
顔が白い。
「日本の方」
「方角でわかるの?」
「わかりたくないけど」
プリンが、ミオの腕の中で東を見たまま震えている。
首輪は光っていない。
命令ではない。
でも、何かが呼んでいる。
私はスマホを握った。
画面のひび割れの向こうで、通知がまだ増えている。
世界は騒がしい。
真実はまだ弱い。
でも、ゼロではない。
「帰ったら、まずプリン洗って、病院行って、寝て、怒られて、解析して、それから」
「それから?」
ミオが聞く。
私は笑った。
怖くないわけではない。
怖いから、笑う。
「次の配信準備」
ミオは呆れたように息を吐いた。
「やっぱり配信者」
「うん」
私は、枯れた喉で言った。
「見られてるなら、こっちも見る」




