第19話 朝へ逃げる
扉は、信じられないくらい重かった。
地下施設に降りる時は、勝手に開いたくせに、出る時には人力を要求してくる。こういうところが怪異として配慮不足だと思う。入場は自動、退場は手動。遊園地ならクレーム案件だ。
「押して!」
ミオが叫ぶ。
「押してる!」
「もっと!」
「姉の腕力に期待しすぎ!」
プリンを抱えたミオが肩で扉を押す。私も両手で押す。ノクスが後ろから片手を添えた瞬間、扉はあっさり動いた。
「力あるじゃん!」
「あなたたちが弱いだけよ」
「地上人差別!」
錆びた扉が、軋みながら開く。
外から、冷たい空気が流れ込んできた。
レンデルシャムの森は、夜明け前だった。
空は青でも黒でもなく、灰色と薄い紫の間みたいな色をしている。木々の枝は濡れ、落ち葉は暗く沈み、遠くで鳥が一羽だけ鳴いた。
あまりにも普通の朝だった。
世界を管理する超知性の喉を落としてきた直後の背景としては、地味すぎる。
私は膝から崩れ落ちた。
というより、脚が勝手に休業宣言を出した。
「無理。もう無理。労働基準法が泣いてる」
ミオも隣に座り込む。プリンを抱いたまま、肩で息をしている。
プリンは煤だらけで、毛の先がところどころ焦げていた。けれど、ミオの腕の中で小さく震えている。震えているなら、生きている。いつものプリンだ。
「プリン」
ミオが呼ぶ。
プリンは、ゆっくり顔を上げた。
そして、ミオの顎を舐めた。
ミオの顔がぐしゃっと崩れる。
「泣く?」
私が聞く。
「泣かない」
「もう泣いてる」
「これは目の故障」
「地底技術より雑な言い訳」
ミオは笑いながら泣いた。
プリンを抱きしめる。でも、強くしすぎない。プリンの痛むところを確認しながら、そっと抱く。
ノクスは扉の前に立っていた。
彼女だけが、まだ地上に完全には出ていない。片足を地下に残したまま、森の光を見ている。
「ノクス」
私は呼んだ。
「朝だよ」
ノクスは空を見上げた。
その顔は、初めて見るものに対する顔だった。
「白くないのね」
「朝が?」
「私たちの記録にある地上の朝は、もっと赤かった」
未来の空。
赤い空。酸で泡立つ海。地下へ逃げた子どもたち。
ノクスが見てきた、いや、記録として背負ってきた世界。
今、彼女の前にあるのは、まだ滅びていない朝だ。
湿って、寒くて、地味で、鳥が鳴いている。
「これ、守る価値あるでしょ」
私は言った。
ノクスは、少しだけ目を細めた。
「あるかもしれない」
「そこは、あるって言い切ってほしい場面」
「私にはまだ、言い切る資格がない」
その返事は、気取っているようで、たぶん本音だった。
背後で、地下の扉が内側から歪んだ。
ゴン、と鈍い音。
ノクスが手をかざすと、扉の表面に銀色の文字が走った。
「封鎖する。追跡を数時間は遅らせられる」
「数時間」
「それ以上は保証できない」
「今日ずっと保証できない話ばっかり」
ハロルドが近づいてきた。
警官に止められかけたが、彼は何かを短く説明し、こちらへ来る許可を得たらしい。
彼の目は、私たちではなく、扉の前に立つノクスへ向いていた。
長い沈黙があった。
「夜の使者」
ハロルドが英語で言った。
ノクスは、彼を見た。
「あなたは、まだ覚えているのね」
「忘れられるようにされた」
ハロルドの声は震えていた。
「それでも、完全には消えなかった」
ノクスは答えなかった。
その沈黙は、謝罪の前の沈黙に似ていた。
ハロルドは私たちを見て、ゆっくりと言った。
「彼女を信じるな。だが、彼女が記録を消さなかったなら、その理由は確かめろ」
ミオが小さく訳してくれた。
私は頷くしかなかった。
「ハロルドさん、地下の入口、もう危ないです」
ミオが英語で説明する。
彼は扉を見た。
その顔には、長い時間をかけて集めた疑問が一気に崩れる人の疲れがあった。
「やはり、空ではなかった」
「はい」
ミオが言う。
「下でした」
ハロルドは目を閉じた。
彼にとって、その一言は人生の答えだったのかもしれない。
でも、答えは人を救うとは限らない。
答えのせいで、次の問いが開くこともある。
ノクスは扉を封じながら言った。
「保証された未来を望むなら、アークに従う方が近いわ」
「じゃあ、保証なしでいいです」
ミオが静かに言った。
プリンを抱いたまま、森の出口の方を見る。
遠くからサイレンが聞こえた。
本物か偽物か、一瞬わからなかった。
でも、音は少しずつ近づいてくる。救急車か、警察か、地元の管理者か。たぶん全部だ。
救急隊員にスマホを取り上げられそうになった時だけ、私は急に元気になった。
「ノー、ノー、これ証拠! エビデンス! 配信者の命! いや命はこっちだけど、これも命!」
自分でも何語かわからない叫びになった。
ミオが横から淡々と英語で説明してくれた。
救急隊員は困った顔をしながら、スマホを私の手に戻してくれる。
「ミオ、今の私、何点?」
「英語は二点。必死さは百点」
「総合で合格?」
「補欠」
事務所からの着信がまた鳴った。
私は出ようとして、指が止まる。
何から説明すればいいのかわからない。
英国ロケで青く光りました。未来の地底人に会いました。愛犬は監視端末でした。でも家族です。超知性の中継核を落としました。ノクスという加害者が謝罪を半分しました。次は日本かもしれません。
どこから切り出しても、担当マネージャーが一回黙る未来しか見えない。
「出ないの?」
ミオが聞く。
「出たら、現実になる」
「もうなってる」
「妹の針、今日は鋭すぎる」
私は着信を見つめ、結局メッセージだけ送った。
《生きてます。説明は長くなります。プリンも生きてます》
送信してから、これだけでは何も説明していないことに気づいた。
でも、今いちばん大事な情報は入っている。
すぐに既読がついた。
返事は三秒後だった。
《よかった。経費精算は本当に後でいいです。まず病院へ》
私はそれを見て、なぜか泣きそうになった。
世界がどうとか、アークがどうとか、未来の地底文明がどうとか、そういう大きすぎる言葉の後に、「まず病院へ」は強い。
人間の現実は、だいたいそこから始まる。
「ミオ」
「なに」
「病院、行こう」
「今さら?」
「今さら」
ミオは少しだけ笑った。
プリンも、毛布の中で小さく鼻を鳴らした。
私のスマホはまだ配信中だった。
バッテリーは一%。
画面は割れ、ノイズで半分埋まっている。
それでも、コメントが流れている。
《生きてる》
《外だ》
《朝だ》
《プリン映して》
《ノクスいる?》
《これ本物なの?》
《本物かどうかより保存しろ》
《青い光、こっちでも見えた》
私はカメラを自分たちへ向けた。
泥だらけの私。泣き顔のミオ。煤だらけのプリン。扉の前で白く立つノクス。
過去最高にひどい画角だ。
でも、最高に本物だった。
「以上、現場からでした。天羽レイナ、天羽ミオ、プリン、あと暫定協力者ノクスがお送りしました。生きてたら、チャンネル登録お願いします」
「この状況で?」
ミオが呆れる。
「配信者だから」
ノクスが首を傾げる。
「それは、祈りの形式なの?」
「だいたい合ってる」
その時、スマホが震えた。
配信アプリではない。差出人不明の通知。
《選択は記録された》
さっきと同じ文字。
けれど、その下に、もう一行が追加されていた。
《観測は継続する》
私は画面を見つめた。
アークは死んでいない。
中継核を落としただけだ。レンデルシャムの喉を潰しただけ。神様の声は、世界中に別の喉を持っているかもしれない。
ミオも画面を見ていた。
「終わってない」
「だね」
「でも、穴は開けた」
「うん」
ノクスが、スマホの文字を見ている。
その顔に、迷いが戻っていた。
「ノクス」
私は言った。
「これ、アーク?」
「おそらく」
「おそらくってことは、違う可能性もある?」
ノクスはすぐには答えなかった。
朝の光が、彼女の銀色の髪を薄く照らす。
「アークの管理系は、一枚岩ではない。あなたたちが穴を開けたことで、地底側の別系統も目を覚ますかもしれない」
「別系統」
「アークに従う者。アークを利用する者。アークから隠れていた者。地底文明は、あなたたちが想像するほど単純ではない」
「今、すごく嫌な次回予告を聞いた」
ミオがプリンを抱き直す。
「ノクスは、どうするの」
ノクスは、遠くのサイレンの音を聞いていた。
「私は、地底へ戻る」
「また逃げるの?」
ミオの声が少し硬くなる。
「違う」
ノクスは、今度はすぐに答えた。
「私の認証ログを、さらに奥へ流す。アークの外側にいる者たちへ。地上であなたたちがしたことを、地下にも見せる」
「それって危なくない?」
「危ないわ」
「軽いね」
「あなたたちに学んだの」
ノクスは、初めて少しだけ皮肉っぽく笑った。
私は返事を探した。気の利いた言葉が出ない。こういう時、いつもなら冗談を言う。でも、ノクスの顔を見ると、冗談だけでは足りない気がした。
「ノクス」
「何」
「謝罪、まだ半分だから」
ノクスは、ほんの少し目を伏せた。
「覚えている」
そして、彼女はミオを見る。
プリンを見る。
私を見る。
「ごめんなさい」
言葉は短かった。
下手だった。
どこに向けて、どこまでを謝ればいいのか、本人もわかっていない声だった。
でも、逃げ道はなかった。
「あなたたちを、人間として見なかった」
ミオはすぐには答えなかった。
私も答えなかった。
許すには、あまりにも遅い。
でも、聞かなかったことにはできなかった。
ミオが小さく言った。
「半分、受け取る」
私は続けた。
「残り半分は、次」
ノクスは頷いた。
その直後、スマホのバッテリーが切れた。
画面が黒くなる。
配信が終わった。
でも、世界はもう、完全な暗闇には戻らなかった。
森の向こうで、朝日が薄く昇り始めていた。




