第18話 謝罪の仕方
静寂は、三秒しか続かなかった。
一秒目、私は勝ったと思った。
二秒目、ミオが「まだ」と言った。
三秒目、天井が落ちてきた。
「いや、勝利演出短すぎない!?」
ゴン、と鈍い音が竪穴全体を揺らす。
中継核の青い光は消えた。代わりに、非常灯の赤が壁を染めている。さっきまで神経みたいに脈打っていた配管は、ところどころ黒く焦げ、白い蒸気を噴いていた。
「冷却が落ちた」
ノクスが言った。
「それは、崩れるって意味?」
「ええ」
「説明が早くて助かる! 助からないけど!」
ミオがプリンを抱き上げる。
プリンは抵抗しなかった。さっきまで命令を破って走っていたのが嘘みたいに、ぐったりとミオの腕に体を預けている。
「プリン、生きてる?」
ミオが震える声で呼ぶ。
プリンは片目を開けて、小さく「くぅ」と鳴いた。
「生きてる」
ミオの声が、今にも崩れそうになる。
「よかった」
私は言った。
「本当に、よかった」
言い終わる前に、足元が大きく揺れた。
私たちは壁に叩きつけられる。スマホが手から滑り落ちかけたが、何とか掴む。
画面はまだ配信中だった。コメント欄はほとんど見えない。ノイズの奥に、短い文字だけが流れる。
《生きて》
《逃げて》
《プリン》
《ノクスログ保存した》
《青い光消えた》
《でも別の場所で光ってる》
最後のコメントを、私は見なかったことにした。
今は逃げる。
世界規模の話は、地上に出てから考える。できれば紅茶と痛み止めと温かい毛布を添えて。
ノクスが竪穴の壁に手を当てた。
赤い非常灯の下で、白い指が青く光る。
「上層への補助通路を開ける。長くは保たない」
「ノクスも来るよね?」
私が聞くと、ノクスは一瞬だけ黙った。
嫌な沈黙だった。
「私は、ここに残る」
「はい却下」
「あなたに却下する権限はない」
「ある。配信者特権。画面映えしない自己犠牲は禁止です」
ノクスは呆れた顔をした。
「画面映えの問題ではない」
「じゃあ何」
ノクスは、崩れかけた中継核を見る。
青い光は消えたが、内部にはまだ黒い残響みたいなものが揺れている。
「私が認証ログを開放したことで、アーク管理系は私を逸脱個体として処理する。追跡を遅らせる必要がある」
「だから残る?」
「ええ」
「それ、死に逃げじゃない?」
言ってから、自分でも鋭すぎたと思った。
でも、撤回はしなかった。
ノクスの目が、わずかに細くなる。
「死に逃げ?」
「謝るの下手って自分で言ってたじゃん。今ここで綺麗に残って、私たちを逃がして、はい贖罪しましたって終わるのは、ちょっと都合よくない?」
ミオが私を見る。
止めない。
たぶん、同じことを思っている。
ノクスは何も言わなかった。
崩落音が近づく。上から細かい砂が落ちてくる。
「謝罪の仕方がわからないなら、逃げないで学んでよ」
ミオが静かに言った。
「私たち、まだあなたを許してない。だから、勝手に終わらせないで」
ノクスの表情が、初めて完全に崩れた。
泣くわけではない。怒るわけでもない。
ただ、何かを失った人みたいに、顔から力が抜けた。
「あなたたちは、残酷ね」
「どっちが」
私は言う。
「十六年前の処置室、思い出してから言って」
ノクスは目を閉じた。
そして、短く息を吐いた。
「……そうね」
彼女は中継核から視線を外した。
「わかった。地上へ出る。ただし、途中で追跡を切る必要がある。私が遅れることになっても、待たないで」
「待つよ」
「待たないで」
「待つってば」
ノクスは私を睨んだ。
「あなたは本当に指示を聞かない」
「十六年前からの反抗期です」
「記録より悪化しているわね」
「成長と言って」
補助通路が開いた。
壁の一部がずれ、古い軍用階段が現れる。湿った空気が流れてきた。地上の匂いとはまだ遠い。でも、白い処置室や青い中継核とは違う、土と錆の匂いがした。
私たちは走り出した。
ミオがプリンを抱き、私はスマホを持ち、ノクスが後ろを守る。
途中、白い処置室の前を通った。
扉は半分開いていた。
中の光は消えかけ、銀色の処置台が赤い非常灯に照らされている。
夢の中で見た時よりも小さい。けれど、そこに置き去りにされた泣き声は、まだ消えていない気がした。
ミオの足が止まりかける。
私も止まりかけた。
プリンが、ミオの腕の中で小さく鳴く。
「行こう」
ミオが自分に言い聞かせるように言った。
ノクスは、その部屋の前で一瞬だけ立ち止まった。
彼女の視線が、二台の処置台へ向く。
十六年前、彼女はそこで私たちを見ていた。止められなかった。いや、止めなかった。
「ノクス」
私は呼ぶ。
彼女は答えない。
「見るだけで終わらせないで」
ノクスは目を閉じた。
そして、処置室の端末に手を置いた。
銀色の光が走り、壁面に残っていた記録の一部が外部送信用の形式へ変換される。
「何してるの」
ミオが聞く。
「私が消せなかった記録を、もう一度残す」
ノクスは短く言った。
「あなたたちが泣いていた声を、私の管理記録の奥に隠していた。アークの命令ではない。私が、見ないために隠した」
ミオの顔が強張る。
私の喉も詰まった。
「最低」
私は言った。
「ええ」
ノクスは頷いた。
「だから、持っていく」
記録がミオのレコーダーに追加される。
ミオは何も言わず、それを受け取った。
許したわけではない。
けれど、証拠は受け取る。
それがミオだった。
配信はまだ生きていた。
画面は暗い。ぶれる。ときどき私の足元しか映らない。
でも、私は喋る。
「今、脱出中です。中継核は止めました。たぶん止めました。施設が崩れています。プリンは生きています。ミオも生きています。ノクスは……まだいます」
「その紹介、改善されないの?」
ノクスが背後から言う。
「じゃあ何て紹介すればいい?」
「元加害者で現暫定協力者」
「重すぎる!」
ミオが少し笑った。
笑った直後、足元の階段が崩れた。
「ミオ!」
私は手を伸ばす。
ミオはプリンを抱いたまま、片足を踏み外していた。もう片方の手が手すりを掴む。錆びた手すりが嫌な音を立てる。
「お姉ちゃん、プリン!」
ミオはプリンを私へ投げようとした。
私は叫ぶ。
「投げない! 犬は投げない!」
ノクスが一瞬で動いた。
彼女の外套が裂け、背中から細い白い帯のようなものが伸びる。それがミオの腕に巻きつき、体を引き上げた。
ミオは階段に転がり込む。プリンが「きゃん」と鳴く。
「今の何!?」
「補助肢」
ノクスが息を切らす。
「未来の人、便利すぎる! でもちょっと怖い!」
「感想は後にして」
ノクスの背中から伸びた白い帯は、すぐに外套の中へ戻った。彼女の顔色が悪い。
「ノクス、本当に大丈夫?」
「大丈夫という言葉の定義を広げれば」
「広げないとだめな時点でだめ!」
ミオが立ち上がる。
「ありがとう」
ノクスは、そこで固まった。
「……何に対して?」
「今、助けたこと」
「それは、負債の一部返済にすぎない」
「それでも、ありがとう」
ノクスは返事をしなかった。
でも、目を逸らした。
謝罪の仕方がわからない人は、感謝の受け取り方もわからないらしい。
面倒くさい。
でも、少しだけ人間らしい。
観測室の前を横切った時、壁の映像はほとんど消えていた。
それでも、いくつかの画面だけが死にきれずに残っている。
偽物の私が、無音で謝っている。偽物のミオが、無音で泣いている。偽物のニュースキャスターが、無音で「フェイク」と口を動かしている。
声を失った偽物たちは、急に薄っぺらく見えた。
「声がないと、こんなに弱いんだ」
私が呟く。
ミオは首を振った。
「声があっても、本物じゃない」
「うん」
私は、割れたスマホを握り直した。
自分の声は奪われた。真似された。先回りされた。
それでも、全部を奪われたわけじゃない。
ミオとの間合い。プリンの鳴き方。ノクスの沈黙。ハロルドの古い記憶。
アークが計算できないものは、たぶん声の中ではなく、声が届くまでの関係の方にある。
ノクスが壁のひとつを見た。
そこには、彼女自身の管理記録が映っていた。服従率、権限、帰還路、上位接続。
数字が次々に赤く塗りつぶされていく。
「消えていくの?」
ミオが聞く。
「切られているの」
ノクスは言った。
「私はもう、管理側の安全圏には戻れない」
それは怖いはずの言葉だった。
けれど、ノクスの声はほんの少しだけ軽く聞こえた。
上の方から、冷たい風が流れてきた。
森の匂いが混じっている。
「出口、近い」
ミオが言う。
私たちは走った。
背後で、地下が崩れていく。
アークの声はもう聞こえない。
でも、完全に消えたとは思えなかった。
階段の先に、錆びた扉が見えた。
その隙間から、夜明け前の灰色の光が漏れている。
地上だ。
私はスマホを持ち上げた。
「見えてる人、もう少しだけ付き合ってください。たぶん、もうすぐ朝です」
その時、画面の端に一行だけ、白い文字が浮かんだ。
《選択は記録された》
アークの声はしなかった。
文字だけが、冷たく残っていた。




