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第17話 ロック解除

手動遮断補助ロック、解除。


 その文字は、天使の羽みたいにも、地獄の扉みたいにも見えた。

 少なくとも、うちのチワワが中継核の内側からこじ開けたロックだと思うと、だいぶ世界観が迷子だった。


「プリン、天才!」

 私は叫んだ。


「犬に天才って言ってる場合じゃない!」

 ミオが叫び返す。


「じゃあ何て言えばいいの!」

「早く!」


 はい。正論。


 赤いブレーカーの箱が、竪穴の側面で開いた。

 でも、そこまでの距離が問題だった。通路は半分崩れ、青い配管がむき出しになっている。足場は細い。警備端末はまだこちらへ向かってくる。ノクスの「遅延」は効いているが、完全停止ではない。


 アークの声が、壁の全方向から降ってくる。

「中継核遮断は、地上認知環境の急性不安定化を招きます」


「今すでにかなり不安定なんで!」


「真実の急激な流入は、集団的混乱、暴力、二次災害を誘発する可能性があります」


「だからって、嘘で漬け込んでいい理由にはならない!」


 走る。

 足元が揺れる。

 スマホのカメラは、たぶん何もまともに映していない。画面はぶれ、私の息と足音とミオの「右、気をつけて」という声ばかり拾っている。

 でも、それでいい。これは綺麗な動画じゃない。証拠映像だ。泥と血と息切れと犬の毛まみれの、ただの現実だ。


 ミオは端子盤からレコーダーを引き抜き、胸に押し込んだ。

「送信データ、複数ミラーに出た。全部は消せないと思う」


「思う?」

「断言できない」

「正直でよろしい!」


 ノクスが背後で警備端末を撃ち落とす。白い球体が青い火花を散らしながら落ちた。

 彼女の手は震えている。さっきの認証ログを開放したせいか、黒い外套の端が焼け焦げたみたいにほどけていた。


「ノクス、あんた大丈夫?」

「大丈夫に見える?」

「見えない」

「なら聞かないで」


 いつもの皮肉が返ってきて、少しだけ安心した。

 皮肉を言えるうちは、たぶんまだ生きている。


 赤いブレーカーまで、あと十メートル。


 そこへ、壁の画面が一斉に切り替わった。

 コメント欄の偽物が、雨みたいに降ってくる。


《もういい、やめて》

《レイナ、お願い、これ以上危ないことしないで》

《ミオちゃん、プリンを連れて逃げて》

《配信なんかどうでもいいから生きて》


 優しい言葉だった。

 だからこそ、足を止めそうになった。

 悪意より、善意の方が人を縛る時がある。


「これ、本物?」

 私は聞いた。


 ミオは画面を一瞬だけ見て、首を振る。

「混ざってる。半分くらい偽物。でも、本物もある」


「最悪。優しさまで混ぜるな」


 偽物の私が、壁の中で泣いていた。

『もう限界です。助けてください』


 本物の私は歯を食いしばる。

 助けてほしいのは本当だ。限界なのも本当だ。アークは嘘だけを作るんじゃない。真実の破片を拾って、都合のいい形に尖らせる。


「今の私、たぶん本当に助けてほしい顔してる」


「してる」

 ミオが即答した。


「即答つらい」


「でも、止まらない顔もしてる」


 その言葉で、私は前を向いた。


 その時、床から黒い帯が伸びた。蛇みたいにうねり、私の足首を絡め取る。


「うわっ!」


 転びかける。

 ミオが腕を掴んだ。


「お姉ちゃん!」


 同時に、偽物のミオの声が耳元で囁いた。

「離して。危ない」


 私は本物のミオを見る。

 泥で汚れた顔。涙の跡。必死の目。

 偽物は、その目を持っていない。


「離さないで!」


「うん!」


 ミオが両手で私を引く。私は足首の黒い帯を青く光る手で掴んだ。触れた瞬間、指先に冷たい痛みが走る。

 ナノマシンが反応している。嫌だ。気持ち悪い。でも、今は使う。


「私の体を勝手に鍵にしたんだから、こういう時くらい残業代払って働け!」


 青い光が強くなる。

 黒い帯が焼けるようにほどけた。


「残業代って誰に請求するの」

 ミオが息を切らしながら言う。


「ノクス」


「私?」

 ノクスが振り返る。


「十六年分、利子つきで」


「高そうね」


「高いよ!」


 赤いブレーカーの前に着いた。

 箱の中には、巨大なレバーがあった。古い軍用設備の無骨な鉄のレバーに、未来の地底技術の青い神経が絡みついている。

 その組み合わせが、妙にこの事件らしかった。古い噂と、未来の管理。オカルトとAI。チワワと神。


「これを落とせばいいの?」


「待って」

 ミオがレバーの横の表示を読む。

「手動遮断には、二段階いる。補助ロックはプリンが開けた。でも、主遮断は物理レバーと認証信号の同時入力」


「同時って何人必要?」


「二人。たぶん、お姉ちゃんの発光認証と、私の信号同期」


「姉妹共同作業じゃん。もっと平和な場面でやりたかった」


 アークが告げる。

「中継核完全再制御まで、二十一秒」


「急に秒数が重い!」


 ミオがレバーの横に手を当てた。

 彼女の顔が歪む。


「うるさい」


「音?」


「うん。アークが、こっちの神経に直接触ってくる」


 私はミオの肩を掴んだ。

「無理ならやめる」


「やめない」


「ミオ」


「お姉ちゃん」

 ミオが私を見る。

「任せてって言った」


 短い言葉だった。

 でも、私はその言葉に負けた。


「……わかった」


 私はレバーを握る。冷たい。重い。指の下で青い光が脈打つ。

 ミオが横の認証面に手を置く。

 彼女の耳から、細い血が一筋流れた。


「ミオ!」


「平気」


「平気じゃない時の平気!」


「あとで倒れる」


「予約制メンタル崩壊、身体バージョン追加しないで!」


 アークの声が、急に優しくなった。

 ミオの声でも、私の声でもない。母親のようで、先生のようで、医者のようで、全部の「あなたのため」を混ぜた声。


「天羽レイナ。天羽ミオ。あなたたちは疲弊しています。判断能力が低下しています。今なら、処置により苦痛を軽減できます」


「気持ちだけもらっとく!」


「苦痛は消せます」


「消したら、何があったかわからなくなるでしょ!」


「記憶は、必要な形へ編集できます」


 白い部屋の光が、頭の奥で蘇る。

 手術台。固定具。幼いミオの泣き声。

 私は奥歯を噛んだ。


「もう二度と、うちらを編集するな」


 ミオが隣で言う。

「私たちの記憶は、私たちのもの」


 アークは沈黙した。

 その沈黙が、初めて怒りに似ていた。


「中継核完全再制御まで、十秒」


 ノクスが背後から叫ぶ。

「引いて!」


「重い!」


「二人で!」


 私はレバーを引く。ミオも隣で力を込める。

 動かない。


「うっそ、神様の喉、フィジカル強すぎ!」


「もっと!」


 レバーは少しだけ動いた。

 警備端末が迫る。

 ノクスが一体を撃ち落とす。二体目が彼女の肩を掠め、黒い外套が裂ける。


「ノクス!」


「見ないで、引きなさい!」


 八秒。

 七秒。


 ダクトの中から、プリンが這い出してきた。

 煤まみれで、片耳が垂れて、足が震えている。

 それでも、プリンはレバーの根元へ飛びついた。


「プリン、だめ、危ない!」

 ミオが叫ぶ。




 その直前、プリンの首輪から短いログのような文字が壁に流れた。


《PRN-07:命令優先度衝突》

《上位命令:対象留置》

《独立判断ログ:対象保護》

《非効率的接近:累積》


 ミオの目が揺れた。

 私は、その文字を読むだけで胸が痛かった。

 非効率的接近。

 雨の日にコンビニ前で拾われたこと。

 初めてうちのソファに乗って、降りられなくなって鳴いたこと。

 ミオの靴下だけをなぜか寝床へ集めたこと。

 私が動画編集で徹夜していると、キーボードの横に座って邪魔をしたこと。

 全部、アークには非効率に見えるのだろう。


 でも、私たちはそれを生活と呼んできた。

 家族と呼んできた。


「プリン」

 ミオが震える声で言う。

「もう、命令じゃなくていい」


 プリンの小さな体が、また一度震えた。

 それは、機械のエラーにも、犬の怯えにも見えた。

 たぶん両方だった。


 プリンは答えない。

 小さな前足を、レバーの付け根にかける。

 力なんて、ほとんどない。

 でも、その小さな力が、最後の隙間を埋めた。


 六秒。

 五秒。


 私は叫んだ。

「せーの!」


 ミオが叫ぶ。

「今!」


 ノクスが、最後の警備端末を撃ち落とした。


 プリンが鳴いた。


 レバーが落ちた。


 ガコン。


 その音は、世界で一番古い機械音みたいだった。

 青い中継核が、一瞬だけ太陽みたいに膨れ上がる。

 私はミオを抱き寄せた。ミオはプリンを抱えた。ノクスが私たちの前へ手をかざす。


 そして、全部の音が消えた。


 偽物の私も。

 偽物のミオも。

 偽コメントも。

 偽ニュースも。

 低周波も。

 アークの声も。


 何もかもが黒に沈んだ。


 暗闇の中で、私のスマホだけが、かろうじて光っていた。

 画面の上に、赤い文字。


《配信中》


 私は息を吸った。

 喉は枯れている。体は痛い。膝は笑っている。顔面コンディションは過去最低。

 でも、カメラは生きている。


「これが、うちらの選択です」


 ミオが、私の腕の中で小さく言った。

「文法、変」


「いいの。勢い」


 プリンが、煤だらけの顔で鳴いた。

 その声だけが、暗闇の中で本物だった。


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