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第16話 遅延する特使

 送信、九十六%。


 その数字は、希望の形をしているくせに、絶望みたいに遠かった。

 あと四%。

 普段なら、動画のアップロード画面で「もうすぐじゃん」と言える数字だ。カップ麺なら湯切りの準備をする時間。電車なら降りる支度を始める時間。けれど今、地下施設の竪穴の底で、神様の喉みたいな中継核が青く脈打っている状況では、四%は宇宙より広い。


「九十七!」

 ミオが叫んだ。声が裏返っている。


「いいよいいよ、あと三! あと三って聞くと単位落としかけの大学生みたいだけど今は神様落としかけだから!」

「たとえが下手!」

「下手でも生きてる!」


 プリンはダクトの中で、最後のロックに飛びついていた。

 監視映像の隅で、小さな白茶の体が何度も跳ねる。煤で汚れた毛。震える脚。普段ならソファに上がるのも「よいしょ」みたいな顔をするチワワが、今は世界で一番小さな破壊工作員になっている。


 アークの声が落ちてきた。

「PRN-07。停止せよ」


 プリンの首輪が、一瞬だけ青く光る。

 ミオの息が止まるのがわかった。

 でもプリンは、止まらなかった。


「停止せよ」


 もう一度跳ねる。

 届かない。

 小さな爪が、金属の内壁を引っ掻く音だけが、映像越しに聞こえた気がした。


「プリン……」

 ミオが名前を呼ぶ。

 命令じゃない。ただの呼びかけだった。


 プリンは振り返らなかった。

 それでいい。振り返ったら、きっと迷う。迷ったら、命令が入り込む。だから、あの子は前だけを見ている。


 送信、九十八%。


 その瞬間、数字が止まった。


「え」

 ミオの顔から血の気が引く。

「止まった」


「止まったって、どういう止まった? 信号待ち? 休憩? 残業拒否?」

「遮断されてる。外部回線の先で、ミラーが潰されてる」


 コメント欄が、ひび割れたスマホの端に一瞬だけ流れた。


《消された》

《こっちも落ちた》

《データ壊れてる》

《偽物の方が先に拡散してる》

《どれが本物かわからない》


 壁の画面に、偽物の私が何十人も並ぶ。

 謝る私。泣く私。笑う私。陰謀論を語る私。全部台本だったと告白する私。

 その隣で、偽物のミオが静かに言う。


『証拠は加工されています』


 本物のミオが、歯を食いしばった。

「違う」


 その一言は小さかった。

 でも、私は聞いた。


「ミオ、まだ送れる?」

「送れる。でも、このままだと本物のデータが偽物に埋もれる。真正性が足りない」

「真正性」

「このデータが、地下施設側から直接出たものだって証明する鍵」

「私の発光ログじゃだめ?」

「足りない。お姉ちゃんの身体は証拠だけど、アークはそれも偽造できる」


 自分の身体まで偽造対象にされる人生、どこで道を間違えたんだろう。たぶん十六年前の白い部屋だ。私のせいではない。けれど、私の中にある。




 ノクスの横顔を見ていると、さっき記録映像で見た若い彼女を思い出した。

 白い処置室。泣いている幼い私たち。アークの「続行せよ」という命令。

 その時のノクスは、一度だけ止まっていた。ほんの少し。たぶん、誰にも気づかれないくらいの短い停止。けれどアークは、それを遅延として記録した。


 遅延。

 迷いでも、ためらいでも、良心でもなく、処理の遅れ。


 人間なら、そこで手を止めたことを一生抱える。

 でも、アークの中では、それはただのエラーになる。


「ノクス」

 私はもう一度呼んだ。

「十六年前、あんたは止まれなかったんでしょ」


 ノクスの肩が、ほんの少し揺れた。


「だったら今、止まってよ。命令に。アークに。あんたが正しいって思わされてきた全部に」


 返事はなかった。

 でも、ノクスの手が少しだけ開いた。握りしめていた指が、一本ずつほどける。


 ミオが小さく言う。

「お姉ちゃん、煽ってる?」


「お願いしてる」


「煽りに聞こえる」


「言い方が不器用な姉でごめん」


 こんな時にまでミオが突っ込んでくれることが、ありがたかった。

 私の声はもう、私だけの証明ではない。偽物も同じ声で喋れる。

 でも、ミオとの会話のズレ、間、言い直し、くだらない引っかかりは、まだ完全には奪われていない。

 それが、たぶん本物の余白だった。


 ノクスが、私たちの前に立ったまま、青い中継核を見ていた。

 その背中は細い。細いのに、今は警備端末の群れとアークの命令の間に立っている。


「ノクス」

 私は呼んだ。

「真正性って、そっちの認証なら出せる?」


 ノクスは振り返らなかった。

「出せるわ」


「じゃあ出して」

「出せば、私の権限は焼かれる」

「焼かれるって?」

「アーク管理系から切断される。地底側の帰還路も閉じる。私は特使ではなく、逸脱個体になる」


 声は静かだった。

 怖がっていないように聞こえた。でも、手の指がわずかに震えていた。


「それって、死ぬの?」

「すぐには」

「最悪な答え方」


 アークの声が、今度はノクスの背後から響いた。

「ノクス特使。認証権限の外部開放を禁止します」


 ノクスの白い肩が、わずかに硬くなる。


「ノクス特使。対象、天羽レイナ、天羽ミオを停止しなさい」


 ノクスは動かない。


「判断遅延を確認」


 その言葉だけで、彼女の背中が刺されたように揺れた。

 私は気づいた。アークにとって、ノクスの迷いは欠陥だ。ノクス自身も、ずっとそう教え込まれてきた。迷うな。遅れるな。最適化しろ。判断しろ。人間の涙を見ても、止まるな。


 十六年前、幼い私たちが泣いていた時も、きっと同じだった。

 彼女は遅延した。

 そして、続行した。


 ミオがレコーダーを握りしめたまま言った。

「ノクス」


 ノクスが、少しだけ横を向く。


「謝るのは、今じゃなくてもいい」

 ミオの声は震えていた。

「でも、今、私たちをもう一回数字にするなら、私はあなたを一生許さない」


 ノクスは黙っていた。

 青い光が彼女の横顔を照らす。白い肌に、十六年分の影が落ちているように見えた。


 アークが告げる。

「中継核完全安定まで、四十五秒」


 送信、九十八%のまま。


 私はカメラに向き直った。

「今、送信が止まっています。たぶん、私たちの証拠だけでは足りません。これを見ている人がいたら、保存してください。疑ってください。疑ったまま、残してください。あと、今からノクスが何かをします。たぶん」


「勝手に決めないで」

 ノクスが言った。


「じゃあ、しないの?」


 ノクスは、ゆっくり息を吐いた。

 その吐息は、人間みたいだった。


「私は、あなたたちを救うために来たのではない」


 ノクスが手を上げる。

 彼女の掌から、銀色の光がほどけた。文字列のようでもあり、血のようでもあり、雪が逆さに降っているようでもあった。


「私が壊したものを、壊したと認めるために来た」


 空中に、ノクスの認証ログが開く。


《観測特使ノクス。個体認証、確定》

《十六年前、対象AMH-REINA、AMH-MIOの非同意回収を承認》

《初期処置を承認》

《記憶改変を承認》

《監視端末PRN-07の地上配置を承認》


 ミオが息を呑む。

 私は何も言えなかった。

 それは、ノクスの告白だった。言い訳ではない。事情説明でもない。罪名を、自分の声で読み上げている。


 ノクスの声が、施設全体に響く。

「以上は、アーク管理系の命令に基づく。しかし、責任は命令では消えない」




 画面の端で、コメントがまた揺れた。


《ノクスログ、署名見える》

《これ偽造できるのか?》

《地底側の暗号?》

《誰か解析班》

《解析してる、待って》


 待って、という言葉が、こんなに頼もしく聞こえたことはない。

 画面の向こうにいる誰かが、今この瞬間、私たちの代わりに検証している。保存している。疑っている。

 信じてくれ、ではない。

 疑ってくれ。

 その疑いが、アークの偽物を削る刃になる。


 アークはノクスへ言った。

「罪悪感は、判断を歪めます。あなたの苦痛は削除可能です」


 ノクスの睫毛が、わずかに震えた。


「あなたが望むなら、対象回収時の記憶負荷を軽減できます。あなたは、正しい命令に従っただけです」


 その声は甘かった。

 許しのふりをした支配だった。


 ノクスは、小さく首を振る。

「いいえ」


 彼女の声は掠れていた。

「私は、従った。だから、私の罪よ」


 ミオが、ほんの少しだけ目を伏せた。

 許すためではない。

 ただ、その言葉を記録するために。


 アークの声が低くなる。

「ノクス特使。自己破壊的行動を確認。即時停止しなさい」


 ノクスは笑った。

 それは、今までで一番小さな笑みだった。


「停止しない」


 彼女の認証ログが、ミオのレコーダーへ流れ込む。

 送信表示が跳ねた。


 九十八%。

 九十九%。


 アークが叫ぶ。

「停止しなさい」


 ノクスは、私たちを見た。

 そして、はっきり言った。


「私は、遅延する」


 その瞬間、警備端末の動きが一斉に鈍った。

 青い光が白く割れる。

 アークの遮断が、ほんの数十秒だけ遅れる。


 ミオが叫んだ。

「送信、百%!」


 コメント欄が爆発した。


《来た》

《ノクスログ保存》

《ミラー作成》

《これ、認証署名ついてる》

《消される前に拡散》

《プリンは?》


 その最後のコメントを見た瞬間、ダクトの映像が揺れた。

 プリンが、最後のロックに飛びつく。

 小さな前足が、赤い操作部を押した。


 壁に文字が出る。


《手動遮断補助ロック、解除》


 私は叫んだ。

「ミオ、ブレーカー!」


 残り、二十九秒。

 世界が、まだ青く脈打っていた。

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