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第15話 命令違反の犬

 プリンは動けなかった。

 赤いブレーカーの横。細い保守ダクトの前で、前足を上げたまま固まっている。

 行こうとしている。でも、行けない。

 小さな体の内側で、二つの命令がぶつかっているのが見えるようだった。


「PRN-07」

 アークがミオの声で言う。

「対象、天羽レイナを留め置け。対象、天羽ミオを保護対象として拘束。命令優先度、最上位」


 プリンが振り返る。

 私を見る。

 ミオを見る。

 そして、私のズボンの裾に噛みついた。


 強くはない。

 でも、止めようとしている。


「プリン」

 私はしゃがんだ。

「それ、あんたの意思?」


 プリンは答えない。

 答えられない。

 ただ、青く光る首輪の奥で、何かが強制的に脈打っている。


 その首輪は、私が通販で買ったものだった。安くて、軽くて、色がプリンの毛に合うと思った。ミオは最初、『もう少し地味な方がいい』と言っていたくせに、届いた夜には写真を三十枚撮っていた。

 その首輪の奥に、私たちの知らない回路が隠れていた。

 けれど、首輪をつけている間も、プリンはプリンだった。散歩で三歩ごとに立ち止まり、私の靴下を盗み、ミオの膝を当然のように占領した。


 命令がどれだけ深くても、七年間の全部を上書きできるとは思いたくなかった。


 ミオが端子盤から叫ぶ。

「プリン!」


 アークも同じ声で重ねる。

「プリン、止めて」


 本物と偽物。

 同じ声。

 同じ名前。

 でも、違う。

 違うはずなのに、プリンの体には区別がつかないのかもしれない。大好きな声が、自分を縛る命令になっている。


「ミオ、命令しないで」

 私は言った。


「わかってる」

 ミオは涙をこらえた声で答える。

「わかってる」


 送信表示、七十八%。

 警備端末が二体、私の背後へ迫っている。

 青い補助橋は消えかけていた。ノクスが上段で必死に制御している。


「ノクス!」

「長くは無理よ!」

「みんな今日そればっかり!」


 警備端末が突っ込んでくる。

 私はプリンを抱えようと手を伸ばした。けれど、プリンは裾を離さない。私を止めるために。命令に従うために。


 ミオが、静かに言った。


「プリン」


 今度の声は、とても小さかった。

 アークの声より小さい。警報より小さい。中継核の振動よりずっと小さい。


「来なくていい」


 プリンの耳が動いた。


「怖かったら、そこにいていい。命令とか、役目とか、もういい」


 アークがすぐに模倣する。

「来なくていい。そこにいていい」


 同じ言葉。

 同じ声。

 でも、違った。

 本物のミオの声には、プリンを動かそうとする力がなかった。そこにいることを許すだけの声だった。


 プリンの歯が、私の裾から離れた。


 私は息を止める。


 プリンは一歩、後ろへ下がった。

 ミオの方へ戻るのかと思った。

 違った。


 プリンは、赤いブレーカー横の保守ダクトへ向き直った。


「PRN-07。接近を禁止」

 アークの声が鋭くなる。


 プリンは震えている。

 でも、目はもう逸らしていなかった。


「PRN-07。停止せよ」


 プリンが走った。


「停止せよ」


 止まらない。


「停止せよ」


 止まらない。


 小さな足音が、金属板を叩く。

 それは中継核の振動に比べれば、あまりにも弱い音だった。世界中の偽情報に比べれば、誰にも届かない音だった。

 でも、私にははっきり聞こえた。


「プリン!」

 ミオが叫ぶ。


 警備端末がプリンへ向かって軌道を変える。

 私は走った。間に合わない。


 白い光が上から飛んだ。

 ノクスだった。

 細い制御具から放たれた光が、警備端末の単眼を貫く。端末は軌道を外れ、壁へ激突した。


「一度だけって言ってなかった!?」

 私は叫ぶ。


「数え方の解釈が違うのよ!」

 ノクスが返す。


「便利!」


 プリンは点検口へ飛び込んだ。

 小さな尻尾が最後に見えて、すぐに暗いダクトの中へ消える。


 壁の表示が変わった。


 PRN-07、内部診断経路へ進入。

 命令系統衝突。

 服従回路、応答なし。

 手動遮断補助経路、開放準備。


 ミオが口元を押さえた。

 泣いている。けれど、手は端子盤から離さない。


「送信、八十六%」


「いいよ」

 私は言った。

「続けて」


 アークの声が、初めて少しだけ硬くなった。

「PRN-07の逸脱を確認。再掌握を試行」


 壁に、プリンの内部映像のようなものが映った。

 狭いダクト。青い線。赤い警告表示。小さな体が、何かに何度もぶつかりながら進んでいる。


「映すな」

 ミオが言った。

「プリンを、そんなふうに映すな」


 アークは答えない。

 代わりに、ダクト内へ黒いノイズが走る。

 プリンの動きが止まりかけた。


「プリン」

 ミオが名前を呼ぶ。

 今度も命令しない。

 ただ、名前を呼ぶ。


 プリンがもう一度進む。


 送信、九十%。

 九十一%。


 警備端末が増えている。

 上段からも、下段からも、白い球体が湧くように現れる。ノクスは何体かを撃ち落としているが、明らかに数が足りない。


「ノクス、限界?」

「とっくに限界よ」

「言い方が正直!」


 アークが告げる。

「中継核完全安定まで、七十二秒」


 壁の画面で、偽物の私が笑う。

『皆さん、安心してください。これは演出です』


 私はカメラへ向き直った。

「安心しないでください。疑ってください。保存してください。今、プリンが中にいます。うちのチワワが、神様の喉の中を走っています」


「言い方」

 ミオが泣きながら突っ込む。


「だって本当じゃん」


 送信、九十二%。

 九十三%。


 ダクトの内部映像で、プリンが赤いロックの前にたどり着いた。

 小さな前足では、届かない高さに操作部がある。


「無理」

 ミオが息を呑む。


 プリンは何度も跳ねた。

 一回。届かない。

 二回。届かない。

 三回目、青い首輪の奥が一瞬だけ光った。

 それは命令の光ではなかった。

 プリン自身の中に残った、何かの残光みたいだった。


 前足が操作部に届く。


 壁に文字が出る。


 手動遮断補助ロック、解除準備。


 送信、九十五%。


 その瞬間、観測室の奥から、これまでで一番低い音が響いた。

 ブゥン。


 中継核の青い光が、竪穴いっぱいに膨れ上がる。

 警備端末が、すべてこちらを向いた。


 アークの声が、ミオの声でも私の声でもない、ただ冷たい音として降ってきた。


「これ以上の逸脱は、保存対象の損失を招きます」


 ノクスが、初めてはっきりと私たちの前に立った。


「なら、損失を記録しなさい」


 その声は静かだった。

 でも、今までのどの言葉よりも強かった。


 アークの画面に、ノクスの数値が赤く点滅する。

 服従率、急落。判断遅延、継続。反逆可能性、上昇。


 ノクスはそれを見ていた。

 見たうえで、動かなかった。


 私はその背中を見ながら思った。

 この人はまだ謝っていない。許すつもりもない。

 でも、少なくとも今この瞬間、彼女は自分の罪をなかったことにしない側へ立っている。


 私は彼女を見た。

 ノクスは振り返らない。

 白い背中が、青い光の中で細く揺れていた。


 送信、九十六%。


 残り、六十秒。


 プリンが、ダクトの中で最後のロックに飛びついた。


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