改訂【塀の上、綱渡りのハッカーズ】 本編 9 証券スキーム
東京・新大塚のオフィスは、相変わらず静まり返っていた。
喧騒とは無縁の、過剰なほどに整理された空間。相沢弦太郎にとって、そこはもはや「巣」に等しかった。
神崎という大物を客にしてから三ヶ月。
相沢のスマホには、絶え間なく入金通知が届くようになった。以前は「夢の数字」だった預かり資産は、今や百億単位で膨れ上がり、組織の口座は息をするように金を吸い上げ、そして吐き出している。
相沢の生活は、劇的な変化を遂げたが、外からは窺い知れない。
しかし、相沢の中に浮かれる様子は微塵もない。
かつては、ただ一日を凌ぐためだけに酪農家の息子が泥を噛んでいた日々だった。
「相沢さん、次の予約です。今回は外資系ファンドに投資している超・富裕層が興味を示しているようで」
助手の務が、タブレットを差し出す。相沢はそれを受け取ると、手慣れた仕草で予定を確認した。
「ああ、分かった。……ところで、今回の顧客には例の『損金補填』の件、強調しておいてくれ。奴らは慎重だ。利益よりも、損をした時の言い訳を欲しがっている」
「承知しました」
相沢の言葉は、まるで歯車が噛み合うかのように滑らかだった。
もはや、顧客を「釣る」という感覚はない。彼らは彼らで、自分たちの資産を少しでも合理的に運用したいという、極めて「真っ当な」欲望を持ってこちらに来る。相沢は、その欲望に完璧なソリューションを提供するだけだ。
組織は潤っていた。かつて25平方メートルの会議室で始まった密やかな商談は、今では都内の各所に拠点を持ち、数十人の「篤の駒」たちが、寸分の狂いもなく台本通りにカリスマトレーダーを演じている。
オフィスの一角では、篤が何人かの若手を集めて指導を行っていた。
「いいか。客は『俺たちは特別な情報を手に入れた』と錯覚するのが一番気持ちいいんだ。高橋の適当なネコの話を、彼らは『相場変動の機微を読み解く深遠な哲学』として解釈してくれる。お前たちがやることは、その解釈を否定せず、ただ相槌を打つことだ。賢い客ほど、自分から勝手に騙されてくれる」
その言葉に、若者たちが神妙に頷く。
彼らは皆、相沢のようなトップランナーが、驚異的な運用実績を叩き出し、顧客を笑顔にして、そして自分たちにも多額の報酬が振り込まれるという「成功のサイクル」に憧れている。
その夜、相沢は独り、湾岸を見下ろす高層マンションのバルコニーにいた。
太田黒が、「配下の休養所にと」用意した場所だった。
眼下に広がる東京の灯りは、まるで数千、数万の口座の明かりのように見える。神崎を筆頭に、政財界の要人たちが、自分たちが提供する「魔法の口座」に縋り付いている。
ふと、相沢は自分の手を見た。
以前は土と乾草の匂いが染み付いていたはずの手は、今は完璧な手入れにより、エリートのものと見紛うほどに白く、滑らかだ。
(俺は、今、何を食べて生きているんだろう)
時折、ふとそんな自問が脳裏をよぎる。
自分たちが積み上げているのは、ただの数字なのか、それとも、いずれ崩れ去る砂の城なのか。だが、そんな思考もすぐに打ち消される。
今日も、通帳には数千万円の報酬が振り込まれた。この金があれば、かつて自分たちの家族を追い詰めたような理不尽な不幸など、二度と味わうことはない。自分は強くなった。ヤワな人間ではない。組織という、巨大で、無敵の鎧を身に纏った戦士になったのだ。
背後でドアが開く音がした。振り返ると、篤が立っていた。
「また、一人いい客が掴めたそうだ。……相沢、お前のおかげで、太田黒さんもご満悦だ」
「篤さん……。そろそろ、次のステージへ行ってもいいんじゃないですか?」
「次のステージ?」
「ええ。今の手法は完璧です。ですが、もう少し規模を広げれば、これまでの数倍、いや十倍の資金を動かせます。もっと大きな……それこそ、国の予算を左右するようなレベルで」
篤は一瞬だけ目を細めたが、それから厳しい顔つきになった。
「戒めを忘れたか?」
「……」
相沢の瞳には、かつての悲愴感は消え失せ、冷徹な勝利者の光が宿っていた。
組織の肥大化は、もはや誰にも止められない。
官憲の影も、反社の影も、今の彼らには遠い世界の出来事に過ぎなかった。少なくとも、今はまだ、その牙が自分たちに向けられるまでは。
「危機は、音もなく忍び寄るものだ。忘れるな」
相沢は、素直に頷いた。
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