改訂【塀の上、綱渡りのハッカーズ】 本編 8 証券スキーム
相沢弦太郎にとって、その午後からの時間は、人生で最も冷ややかな演劇の開幕だった。
午後4時。新大塚のオフィスにある25平方メートルほどの会議室。
使い古されたスティールテーブルが4脚、無機質に並び、そこに「篤の駒」と呼ばれる8人が沈黙のうちに座っている。
部屋の隅、ソファに深く沈み込み、まるで幽霊のように気配を消している太田黒。その隣に立つ篤の眼光が、相沢を含めた全員を射抜く。
「紹介する。カリスマトレーダーの高橋だ」
パイプ椅子から立ち上がったのは、二十歳そこそこの、見るからに軽薄そうな若者だった。場違いなほどチャラついた格好に、8人の視線が硬直する。
(えっ、コイツが……?)
皆の表情に、隠しきれない戸惑いが走る。しかし、篤の静かな威圧の前では、誰も口を開けない。
「知っての通り、口座へのログインは生体認証が必須になった。直近の取引で9勝1敗が、高橋だった」
篤の言葉には、感情の波がない。
「次のトレードで、負けるかもしれない。それでも8勝2敗だ。使い頃といえる」
その言葉の意味を、8人は理解している。この「カリスマ」という名の空っぽの器は、消費される運命にあるということだ。
「今度、大口の顧客だけを集めてセミナーを開く。その講師の一人が、高橋だ。今日、セミナーに備えてロールプレイングをやる。この様子を録画して、他のグループにも配布する。皆、配った台本通りに頼むぞ」
「はい!」
8人の返事は、まるで軍隊のように統率されていた。相沢は司会進行役として一歩前へ出る。
「早速、高橋氏の取引履歴を、見せてもらいましょう」
高橋が脇の小机でノートPCを操作する。助手がケーブルを繋ぐと、壁際の50インチモニターに、完璧な数字の羅列が映し出された。
「ご覧のように、9勝1敗です」
相沢の淡々とした進行に合わせ、8人が台本通りの感嘆の声を上げる。
「ほぉ~」「ふむふむ」「へぇ~!」
疑い深い一人がPCを奪い取り、手元で検証を始める。モニター越しに映る取引日時、損益通算。どこからどう切っても、それは完璧な「本物の履歴」だった。
「疑う余地などない、正真正銘の取引履歴です」
相沢の言葉が部屋の空気を支配する。続いて高橋への質問。
「講師、トレードの要諦を伺えますか?」
高橋はやる気なさげに欠伸を噛み殺し、こう言った。
「これといって、とくにないなぁ……。しいて言うなら、飼ってるネコの食欲かなぁ。それで、買い玉を建てるか、売り玉を建てるか決める」
失笑が漏れる。しかし、篤は満足げに頷いた。
「OK。どの会場の講師もこんなもんだ。下手に取り繕うより、素でやった方が、聞く方が勝手に解釈してくれる」
撮影終了後、篤は相沢を呼び寄せた。
「お前に、太田黒さんからプレゼントだ」
箱から取り出した名刺には、「フィーチャリング証券 第二営業部 営業一課 第5グループ サブリーダー 相沢弦太郎」とあった。
「超富裕層の客筋にも、渡りをつけてある」
篤の冷徹な一言が、相沢の心臓を撃ち抜く。
貧しき酪農家の息子が、鎧としての「外資系証券マン」を纏わされる瞬間だった。
翌朝、相沢は港区にある超高級ホテルのスイートルームのドアを叩いていた。顧客は、かつて原発関連の投資で巨万の富を築いたと言われる不動産王・神崎である。
「失礼いたします。フィーチャリング証券の相沢と申します」
応対に出た老執事が、冷ややかな視線を相沢の完璧なスーツへ向ける。しかし、相沢は微塵も怯ひるまなかった。胸ポケットに忍ばせた「フィーチャリング証券」の名刺は、自分が何者であるかという真実を、社会の最上層という仮面で隠蔽いんぺいするための唯一の武器だ。
リビングルームに通されると、そこには重厚な調度品に囲まれた神崎が、葉巻を燻らせて座っていた。
「外資? 若いな。どこの吹き溜まりから来たのか知らないが、……」
相沢は、太田黒が用意した資料をテーブルに置いた。それは、いかにして彼ら超富裕層が「法を潜り抜けて」資産を増やし続けてきたかという、彼ら自身ですら気づいていない穴を突く攻略本だった。
「ご安心を。私は資産を運用しに来たのではありません。証券コード1570、NF日経225レバレッジのトレード勧めに参りました」
「そんなものは、どこの証券会社でもやれる」
「特別口座で運用して、利益にかかる税金は15%、損失が出たトレードでは損失額の5%を補填いたします」
神崎の眉がピクリと動く。
相沢は、自分がかつて「食っていける」までに20年を要した曾祖父の石ころだらけの土地を思い出した。今、目の前の男は、自分の家族が食い物にされた「詐欺」と同じ手口で、合法的に国から搾取している。
「マジか?」
「けして詐欺などでは、ありません。お疑いなら、最初のトレードは、建玉100万円の証拠金、30万円の証拠金だけで結構です」
「ふん。子供の遊びだな」
「神崎様に、信用して頂くのが先決です」
相沢の言葉は、完璧なまでに冷徹で、そして哀しいほどに響いた。彼が売っているのは、投資術ではない。富裕層が抱える「さらなる搾取への渇望」という名の、醜い欲望そのものだった。
「いいだろう。その『態度』気に入った」
神崎が薄い笑みを浮かべる。その瞬間、相沢の背中に冷や汗が流れる。この男は、自分を「獲物」としてではなく、面白い「道化」として見ている。
相沢は名刺を置き、深々と頭を下げた。心の中では、自分を捨てた社会と、自分を拾った怪物たちが交差する。
(俺は今、一番汚い場所で、一番綺麗なふりをしている)
外資系エリートの仮面を被り、相沢弦太郎は、最初の獲物の喉元へと静かに牙を立てた。
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