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改訂 【 塀の上、綱渡りのハッカーズ 】  作者: 風風風


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D幕 第36編

久保は、太田黒が去った後の空席に深く腰を下ろした。眼前に広がる1024の口座は、かつて師が構築した「屠殺場」のモニターであり、同時に、この令和という時代を支配する「力」そのものだった。


太田黒が残したノートには、システムの精緻な設計図と、それを維持するための冷酷な論理が記されていた。しかし、久保はそれをただの「搾取の装置」として受け継ぐつもりはなかった。彼は、師が葛藤の果てに置き去りにした「人の命の重さ」と、それを切り捨てることでしか成立しない「システムの均衡」という矛盾した二つの重石を、同時に背負うことを決意した。


「飛躍」の定義を、久保は書き換えた。師にとっての飛躍は、摩擦熱を増大させ、より多くの利益を吸い上げることだった。しかし久保の飛躍は、システムの回転効率を極限まで高めつつ、その膨大な利益の中から「救済」という名の社会的なコストを捻出することにあった。


久保は、256人のエリート・トレーダーたちを招集した。彼らは太田黒の恐怖政治の下で、ただ言われた通りの数値を入力する「人形」と化していた。久保は、彼らの前に立ち、モニター越しではなく、生身の眼で彼らを見つめた。


「今日から、我々はただの数値処理を辞める。これからは、個々のトレーダーに、担当する1024口座のうち、20%の裁量を委ねる」


どよめきが起きた。かつて太田黒が厳禁した「感情」や「予測」の余地を与えることは、システムを崩壊させる危険な行為に思えたからだ。


「この20%で、勝てとは言わない。だが、市場の歪みをただ利用するのではなく、市場が本来持つべき『循環の機能』を助ける動きをしろ。利益は追うな。利益は、残りの80%の機械的な計算が勝手に叩き出す。お前たちには、システムが見捨てた『負け組』たちの損失を、一時的に補填する『緩衝材』の役割を求める」


久保は、かつて自分が教わった「法の武器化」を逆に利用した。彼は、自らが作り上げた膨大な取引データを、法的に適格な「社会的救済基金」へと直結させた。システムの隙間で泣く人々を、「法的な不適格者」として切り捨てるのではなく、市場操作という名目で合法的に資金を還流させる回路を作ったのだ。


もちろん、これは綱渡りだった。太田黒が恐れた通り、個人の感情や慈悲を持ち込むことは、システムの均衡を著しく損なう。計算上、利益率は3%低下した。しかし久保は、その低下分を、システムの回転数を物理的に1.5倍に引き上げることで補った。


彼は、AIを用いた超高速取引アルゴリズムを改良し、1024口座の同期精度をマイクロ秒単位で高めた。以前なら一人のカリスマに頼っていた市場予測を、群知能的なアルゴリズムに分散させ、システムそのものを自律的に進化させた。


「師匠、あなたはシステムを完璧にすることで救済を放棄した。だが、私はシステムそのものを呼吸させることで、犠牲を減らす」


久保は、深夜の執務室で独りごちた。太田黒の置き土産である「二つの封筒」は、デスクの引き出しに眠っている。一度も開けていない。開ければ答えが書かれていることは分かっている。だが、今はまだ、その答えを知る必要はない。自分のやり方でこの地獄を改革できると、彼は信じていた。


しかし、現実はそう甘くはなかった。システムに「慈悲」を組み込むことは、同時にシステムに「脆弱性」を生むことを意味した。


ある日、市場に突如として異変が起きた。久保が「救済」のために投入していた資金の動きを、既存の金融秩序を支配する大資本が感知したのだ。彼らは、久保の構築した「人道的な循環システム」を、市場の攪乱要因、あるいは「不当な操作」として攻撃してきた。


「救済を続けるなら、お前の塔は焼き払う」


市場からの無言の圧力が、久保のモニターを埋め尽くす。1024口座が危険信号アラートを点滅させる。救済に回していた資金が、強大な敵によって食い荒らされ、損失が雪崩のように膨らんだ。エリート・トレーダーたちは顔を青ざめさせ、システムを強制終了すべきだと訴えた。


久保は、モニターを見つめた。画面上では、救済されるはずだった何千人もの人々のデータが、赤色に変わり、システムから強制的に排除されようとしている。


「システムを守るか、救済を守るか。究極の二値選択だ」


かつて太田黒が対峙した正と邪の対話が、今度は久保の脳内で再生される。久保は、執務室の引き出しに手を伸ばした。


「救済は、システムのコストカットのために切り捨てられる必要悪か……」


彼は、上の封筒に手をかけた。中には何が入っているのか。師がかつて同じ壁にぶつかり、絶望の果てに選んだ「答え」がそこに記されているはずだ。


久保は封筒を開こうとして、指を止めた。もし、そこに書かれているのが「救済など捨てろ」という冷酷な真実だったら? あるいは、自分と同じ理想を抱き、そして挫折した師の敗北の記録だったら?


彼は封筒を強く握りしめた。そして、モニターへと向き直った。


「コストカットなどさせない。システムの均衡を保つために、秩序を書き換える」


久保は、256人のトレーダーに一斉に命令を下した。利益を追求するのではなく、攻撃してくる大資本のアルゴリズムに対して、全1024口座を一斉に「無効化」する攻撃を仕掛けるという暴挙だった。これは、市場全体を麻痺させる「核兵器」の使用に等しい。


「飛躍とは、現状を維持することではない。今の市場のルールそのものを、我々が書き換えることだ」


塔の深部で、巨大な機械が咆哮を上げる。1024の口座が一体となり、市場に巨大な歪みを生み出した。それは、金銭的な利益を求める動きではなく、大資本の論理を無効化するための「構造的な拒否」だった。


数分後。市場は沈黙した。大資本の攻撃は止んだ。彼らは、久保という「予測不能な狂気」と取引することを恐れ、退却せざるを得なかった。


画面には、何事もなかったかのように安定した数値が戻っていた。救済対象だった人々の口座も、無事、守られた。


久保は、深い溜息をついた。額には脂汗が滲んでいる。執務室の窓の外では、東京の夜景が、何も知らないかのように美しく輝いている。


彼は、結局、封筒を開かなかった。


「まだだ。まだ、師匠の答えを借りる時じゃない」


彼は二つの封筒を、引き出しの奥深くへしまい込んだ。彼が救済し続けた人々が、明日もパンを食べ、暖かな場所で眠れるなら、この塔が地獄と呼ばれようとも構わない。久保はそう決意した。


しかし、彼が気づいていないことが一つある。システムを救うために「市場のルールを書き換えた」その瞬間から、彼はすでに、かつて太田黒が歩んだ「支配者」の道――法を武器化し、システムを己の都合で弄ぶ絶対的な権力者――の入り口に、足を踏み入れてしまっているということに。


久保は再び、次のラウンドの準備を始めた。256人のトレーダーたちは、もはや彼を恐れ、同時に崇拝し始めていた。塔は、以前よりも強く、以前よりも冷たく、そして以前よりも「優しい」悪魔の城へと変貌を遂げた。


太田黒がどこかでこの光景を見ているとしたら、彼は何を思うだろうか。それは、希望なのか、それとも、これから始まるさらなる地獄の序章なのか。


令和の夜空を背景に、塔は静かに、しかし力強く鼓動している。久保の挑戦は、まだ始まったばかりだ。そして、引き出しの中で眠る下の封筒は、彼がさらなる飛躍を遂げたとき、あるいは、さらなる深淵に堕ちたとき、その封印を解かれるのを待っている。


久保は椅子に深くもたれかかり、遠くの星を見つめた。彼は確信していた。救済とは、どこか遠い場所にある理想ではない。この冷酷な数字の羅列の中にこそ、唯一存在する希望なのだと。それがたとえ、自分を滅ぼす呪いであることを知っていたとしても。

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