D幕 第37編
例のアパートは、街の喧騒から切り離されたかのように、ひっそりと佇んでいた。
老朽化が進み、決して立地が良いとは言えないこの場所は、地図上では「不便の極み」に見える。しかし、その一階に住む四人の住人にとって、そこは聖域に近い場所だった。
太田黒の指示により、久保が管理するこの「救済の拠点」は、単なる安宿ではなかった。アツシが運ぶ食料品は、すべて太田黒が運営するネットワークの末端から、最も新鮮な状態で届けられる。
「久保寺さん、またこんなに……」
いつものように、アツシがアパートを去った後、ドアノブから袋を回収した婦人、細川が独りごちた。袋の中には、スーパーでは見かけないほど泥のついた大根と、瑞々しい季節の果物、そして生活に必要十分な保存食が詰まっている。彼女の給料は、警備保障会社での薄給に加え、年齢という壁が重くのしかかっていた。しかし、ここで暮らしている限り、飢えることはない。家賃一万円という破格の条件に、食費の補助まで付いているようなものだ。
久保は、車を走らせながらバックミラー越しに、細川が深く頭を下げ続けている姿を見た。
「太田黒さん、今の細川さんの感謝、伝わっていますよ」
久保の声には、かつての冷徹さは微塵もない。助手席に座る太田黒は、フロントガラスの向こう、闇に沈む街を無表情に見つめている。
「感謝か。……あれは、搾取の痛み止めだよ、アツシ」
太田黒は、窓から夜風を入れながら呟いた。
「このアパートに住む連中を救うことは、俺の罪の帳尻合わせだ。1024口座で何千人もの未来を燃やし、その灰でこの四人を温めているに過ぎない。俺は、『世界を救う』なんて大層なことは考えていない。ただ、自分の手が届く範囲の人間くらいは、自分の理屈で守りたかっただけだ」
「それでも、細川さんは救われています」
「ああ。それは否定しない。だがな、アツシ。この『便利』は、全てお前たちが動いているから成り立つものだ。もし、お前たちがこのシステムを放棄すれば、彼女たちは駅まで坂道を登り、高い家賃を払うために、また過酷な労働に戻るしかない」
太田黒は車を路肩に寄せ、停めた。エンジン音だけが静かに響く。
「俺は太田という偽名を使って、この街の『奇特な家主』を演じている。住人たちは俺を、気まぐれで親切な老人だと思っているだろう。その誤解が、この塔のシステムを維持するための唯一の防波堤だ。……お前は、いつまでこの嘘を続けられるか試してみろ」
住人たちの暮らしは、太田黒が作り上げた「歪んだ循環」の上で、極めて安定していた。彼らは仕事に行く際、ヒロシやアツシの送迎を当然のように享受する。それは支配と被支配の関係というよりも、太田黒が設計した「閉鎖的な共生圏」そのものだった。
住民たちは、自分たちがなぜこれほどまでに優遇されているのか、薄々勘づいているのかもしれない。しかし、この安らぎを失えば、待っているのは冷酷な格差社会の深淵だ。彼らはあえて、その疑問に蓋をした。太田という名の「見えない神」に捧げる感謝は、いつしか日常の一部となり、彼らの生活を内側から支える柱となっていた。
久保は、アパートを去る際、ドアノブにかけられた袋を誇らしげに見つめる住人の姿を見た。その瞬間、彼の中で何かが音を立てて繋がった。
師・太田黒は、救済という名の「嘘」を突き通すことで、己を保っていた。そして自分は、その嘘を「システム」として恒久化しようとしている。どちらがより罪深いのか。それは誰にも分からない。
「行こうか」
太田黒の短く乾いた声に、久保はアクセルを踏み込んだ。アパートに残された住人たちは、今日届いた新鮮な野菜を手に、それぞれの部屋でささやかな晩餐を準備している。外の夜気は冷たいが、彼らの部屋には、太田黒が運んだ灯りが温かくともっている。
太田黒という「邪」が、住人という「正」を救い、その代償として塔で無数の犠牲を出し続ける。その矛盾した天秤の上で、今日もこの街の静かな夜は更けていく。久保は、バックミラーに映るアパートの明かりを見ながら、自分もまた、その天秤の一部であることを再確認していた。
「太田黒さん、明日も野菜を届けますか?」
「ああ。……泥付きの大根がいい。あれが一番、人間臭いからな」
車は夜の闇に溶け込み、塔へと続くハイウェイを駆け抜けていった。その背後で、住人たちの穏やかな日常は、何事もなかったかのように続いていく。それが、太田黒が作った地獄の、唯一の「安らぎ」であった。




