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改訂 【 塀の上、綱渡りのハッカーズ 】  作者: 風風風


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C幕 第35編

「撤収」。


その一言が、深見から全メンバーの通信機へ送られたのは、午前三時の静寂の中だった。理由はない。説明も不要だ。彼らはプロではないが、この十数年、国家という名の巨大な機械の「死角」で生き延びてきた者たちだ。何が起きたのかを問うよりも速く、彼らは手の中の端末を粉砕し、あらかじめ決めていた「焼却手順」を完遂した。


監視室でモニターを眺めていた戸田も、その通達を耳にした瞬間、何の躊躇もなく席を立った。机の上のコーヒーカップは、まだ温かいままだった。彼はPCのメインメモリを抜き取り、小型のガスバーナーで焼き切る。室内のログはすべて自動的に上書き消去され、壁に隠されたカメラのレンズは強酸によって溶かされた。


戸田が農場へ戻ったとき、すでにそこには「日常」の痕跡さえ残っていなかった。牛舎の牛たちは、餌をたっぷり与えられ、静かに反芻している。美咲も菜摘も、荷物をまとめる時間は与えられていなかった。深見の合図は「即時」だったからだ。彼女たちは、ただ身一つで、母屋の裏手に隠されたコンクリの床の蓋を開けていた。


「佐伯、行くぞ」


戸田は、地下で静養していた佐伯蓮を抱え上げた。蓮は、百二十年の呪いからようやく解放されようとしていた矢先の出来事に、ただ静かに目を閉じた。戸田は彼を連れ、地下通路を抜け、あらかじめ用意された大型トラックの荷台へと滑り込む。


蒸発は、まるで最初から誰もいなかったかのように行われた。関東近郊に点在する十数戸の農場は、それぞれが深見の組織が管理する「防空壕」だった。すべての農場には、六十年前に深見が作り上げたものと同じ設計図に基づき、牛舎の地下に「コンテナの要塞」が備えられている。


トラックは闇を切り裂くように走る。追跡はない。だが、国家がその気になれば、この国に逃げ場などないことも彼らは知っていた。今回、彼らを炙り出したのは、佐伯蓮が修正していた「生存選別システム」の、その先にあった「さらに上位の監視網」だった可能性が高い。国家は、蓮が開発したシステムそのものが、自分たちの管理から外れたことを検知したのだ。


「目的地は、北関東の養豚場だ。そこには、六十年前に作られた古いコンテナがある」


戸田の声は低く、そして冷静だった。荷台では、美咲たちが静かに座っている。彼らの表情には、恐怖よりも、どこか奇妙な安堵さえあった。長く潜伏し、いつか訪れるはずだった「終わりの日」がついに来た、というある種の覚悟だ。


彼らが向かうのは、十数戸の農場に分散した「地下」だ。

かつて深見が戦後の混乱期に手に入れた土地は、今やこの国の暗部を支える隠れ蓑として、緻密なネットワークを形成していた。地下コンテナの内部は、当時のままの冷たいコンクリートだが、そこには現代の通信遮断技術と、発電機、そして一ヶ月分の備蓄が完璧に整えられていた。


深夜三時半。トラックは森の中に静かに停車した。

そこは、周囲を深い杉林に囲まれ、地図上では農耕不適地として放棄された土地だ。だが、牛舎の扉を開けると、中からは今も力強い牛の息遣いが聞こえてくる。深見の組織は、この六十年もの間、この場所で、表向きは農業を営みながら、地下の「亡命者」たちを保護し続けてきた。


戸田たちは、牛舎の床の下に隠された重いハッチを開いた。冷気が吹き上がる。地下三十坪の空間。コンテナが五台。それは、彼らの新しい、そしておそらくは最後の拠点となる。


「ここから先は、地上の空気は吸えない」


戸田が蓮を床に降ろした。蓮は、コンテナの中に置かれた机と、モニターに視線を向けた。そこには、彼がかつて地下施設で、国家のために書き上げたのと同型の、しかしより原始的な演算機が置かれている。深見は、彼らがどこへ逃げてもいいように、各地に「同じ檻」を用意していたのだ。


蓮は、荒い息を吐きながらその前に座った。

「結局、また計算か」

「ああ、ただし今度は、国家のためじゃない。俺たちの生存のためだ」


戸田は、入り口の重厚な錠を閉めた。外からは、ただの農場の牛のいななきだけが聞こえる。地上で何が起ころうとも、このコンクリートの壁がすべてを遮断する。彼らは、文字通り「存在しない人間」として、再び地下に潜った。


関東平野の各地で、同じ光景が繰り返されていた。

深見の組織に属する四十名あまりの「棄民」たちは、四方八方に散り、それぞれのコンテナへ消えた。ある者は神奈川の養鶏場の下へ、ある者は群馬の寂れた酪農場の下へ。彼らは二度と地上の太陽を見ることはないかもしれない。だが、その地下深くでは、各所に散らばったネットワークが、蓮の構築した暗号によって瞬時に結びつき、一つの巨大な「地下の脳」を形成しつつあった。


国家が彼らを蒸発させたつもりが、逆に彼らは国家のネットワークの下層に、見えない寄生虫のように根を張ったのだ。


地上では、捜索の手が伸びているはずだ。だが、彼らはすでに「いない」。

牛たちは何事もなかったかのように草を食み、農場は静かな日常を装う。戸田はコンテナの端に座り、競馬新聞を広げた。だが、そこには馬の名前ではなく、地下回線から送られてくる、国家の監視リストの更新情報が刻まれている。


「撤収は、負けじゃない」


戸田は呟く。彼は蓮の方を向いた。蓮の指先は、すでに演算機の上を滑り始めている。かつて足尾で流された血と、震災で捨てられた記憶と、国家に抹消された人々の怨嗟。それらすべてをエネルギーに変えて、地下の演算機がうなりを上げる。


コンクリートの壁の向こう側で、地上では何万人もの人間が「正当な市民」として呼吸している。だが、彼らが信じている「国家」という巨大な自動装置は、今まさに、その足元の地下で、かつて切り捨てた異物たちによって、少しずつ、確実に食い破られようとしていた。


戸田の瞳に、かすかな炎が宿る。

「さあ、始めようか。俺たちの、死なないための戦争を」


十数戸のコンテナが一斉に起動する。

関東近郊の静かな農村の地下に、国家を揺るがす「亡霊の軍団」が誕生した瞬間だった。地上で牛舎の扉を閉めたとき、彼らはすでに生者としての身分を捨て、この国を内側から解体するための「意思」そのものへと変貌を遂げていた。


闇は深い。だが、彼らはその闇の中で、完璧に共鳴し合っている。戸田誠司の日常は、ここから「監視」から「攻勢」へと静かに、しかし劇的にシフトしていった。すべては、この国の理不尽を、その泥ごと葬り去るために。

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