D幕 本編 19
深夜、オフィスから人影が消えた後、久保のデスクにだけ明かりが灯っていた。
彼が眺めている大型モニターには、複雑な相場状況が映し出されている。
それは単なるチャートではない。配下たちが各顧客に対してどのようなスタンスで商談を進めているか、その「買い」と「売り」の比率を示す数表だ。
久保の指が、キーボードの上で止まる。
画面上の「買い」に傾いた数値を凝視し、小さく息を吐く。次の瞬間、久保は端末を操作し、リーダーたちへ短い通知を送る。
『明日、朝日岡には売りを提案させろ。○○〇には……様子を見ろ』
具体的な意図は語らない。
リーダーたちはその指示の背景にある「何か」を推測することも、問い返すことも許されない。ただ、久保の脳内にある複雑なパズルに従い、配下たちは現場で顧客への推奨方針を修正するだけだ。
久保は、積み上げられた未開封の書類の山を無造作に脇へ押した。
コーヒーカップの中身はとうに冷え切っている。彼が夜な夜なこのオフィスで苦渋の表情を浮かべながら何を修正し、何に心血を注いでいるのか。その全容を知る者はいない。
彼にとって、これは単なる売買の管理ではない。
何かを成し遂げるための、終わりの見えない調整作業だ。その視線は、モニターに映る数字の先にある、もっと大きな「何か」を見据えているようにも見える。
時計の針が三時を回る。
久保は重い溜息をつき、椅子に深く背を預けた。明日の朝、市場が開けば、また新たな注文が舞い込む。彼が抱えるこの苦吟の正体が白日の下にさらされる時は来るのか?
その時、この塔に住む者たちの運命がどう転ぶのか――それはまだ、霧の中に隠されている。




