D幕 本編 18
昼下がりの六本木ヒルズ、四十八階のオフィスで。
久保は、10戦9勝の今注目のトレーダーであり、太田黒の配下にある吉岡を伴い、会議室へ足を踏み入れた。
対峙する朝田は、都内にスーパーマーケットのチェーン店を展開する有力オーナー企業を率いる実業家だ。
派手な経営で知られる男だが、バブル期を彷彿とさせる日経平均の最高値更新に、彼もまた抑えきれない焦燥を感じていた。
「朝田様。市場がこれほど加熱している今こそ、多くの投資家が『買い』に走っている今こそ『売り玉』を建てませんか?」
久保の声は、淡々とテーブルの中央に投影された「1570」のチャートを指し示す。
「誰もが狂乱している今、我々は逆の視座を持つべきです。強烈な『売り』からのエントリー。今の市場の歪みを突くには、これが唯一の解です」
吉岡が、無表情のまま頷く。
彼がそこに座っているという事実だけで、この商談が表の投資顧問とは一線を画す特別な領域の話であることを朝岡に突きつけていた。
「ふむ。……。『売り』ね。……」
「朝田様。3億円の証拠金をご用意ください。10億円分の『売り』の建玉を建てます。日経平均が反転したその一瞬、あなたの資産は劇的に変化するでしょう」
久保にとって、この商談の目的はただ一つ。
客に「建玉」という名の巨大な燃料を市場に投じさせることだ。客が利益を上げようが、あるいは損失を出そうが、組織が手にするのは、その圧倒的な取引量から生じる永続的な手数料と利権である。朝田の資産状況など、組織の歯車を回し続けるためのコストに過ぎない。
「吉岡の計算では、明日、市場の空気が一変します。損失の予兆は、我々のデータ解析で数時間前に検知可能です。損切りラインは10%で徹底管理します。資産を守りながら、この相場を最大効率で回転させる。これこそが、私どもの提供する投資の正解です」
朝田の額に薄っすらと汗が浮く。
久保はその様子を、冷酷なまでに冷静な観察眼で見つめていた。3億の証拠金。負け組の客たちが一瞬で消える中、朝田のような層を繋ぎ止め、彼らの資金を枯渇させるのではなく、回転させることで、組織は確実に利益を積み重ねていく。
「いいでしょう。指示通り、売りを建てる」
署名がなされた。久保は表情一つ変えず、書類を回収する。
「ありがとうございます。朝田様の決断は、賢明なものになるはずです」
会議室を出た直後、神崎がぼそりと呟いた。「いいんですか? あいつ、あの3億が最後の一線ですよ」。
久保は、ただ冷ややかに笑う。
「そんなことはどうでもいい。客がどうなろうと、我々の仕事はただ一つ、建玉を建てさせ、回転させ続けることだ」
六本木の塔の夜は更けていく。
シュレッダーの音が、また一つ、ある富裕層の人生を静かに消滅させる準備を整えていた。久保は窓ガラスに映る自分の顔を見た。そこには、組織という巨大な機械を完璧に回すための、冷徹な執行人の顔があった。




