D幕 本編 17
六本木ヒルズ、四十八階の一角。
相沢が「釣り」に勤しむ傍ら、久保はより直接的な「収奪」の場にいた。彼が連れているのは、この組織が抱える四人のカリスマトレーダーの一人、神崎だ。神崎はかつて兜町を席巻した伝説のディーラーだが、今は太田黒に生殺与奪の権を握られ、その卓越した相場観を組織の「刃」として提供している。
今回のターゲットは、地方の有力オーナー企業を率いる実業家、黒田。
堅実な経営で知られる男だが、バブル期を彷彿とさせる日経平均の最高値更新に、抑えきれない焦燥を感じていた。
「黒田様。市場がこれほど加熱している今、多くの投資家が『買い』に走ります。しかし、それはあまりに短絡的です」
久保の声は、相沢のような甘美な誘惑とは対照的に、医師が診断を下すような淡々とした響きを持っていた。会議室の重厚なテーブルに、久保は「1570」のチャートを投影する。
「日経平均レバレッジのチャートを見てください。この異常なまでの上昇は、既に天井を突き抜けようとしています。誰もが買いで利益を狙う時、我々は逆の視座を持つべきです。つまり、強烈な『売り』からのエントリー。これが今の私どもの解です」
横に座る神崎が、無表情のまま頷く。
神崎の存在感そのものが、黒田に対する無言の圧力となっていた。神崎がいる。それだけで、この話が単なる投資話ではない、特別な領域の事案であることが黒田にも伝わる。
「売り、ですか……。しかし、今のこの相場でですか?」
「だからこそです、黒田様。誰もが狂乱している時に冷静であること。それが私どもの組織の唯一の存在意義です。あなたが用意する3億円の証拠金を元手に、10億円の空売りを仕掛けます。下げ幅の2倍のレバレッジが、一瞬にしてあなたの資産を倍増させるでしょう」
「神崎の計算では、明日、市場の空気が一変します。その一瞬を突けば、利益は確定する。負けのリスクは? 安心してください。私どものデータ解析があれば、損失の予兆は数時間前に検知できます。損切りラインは10%で徹底管理します」
黒田の額に薄っすらと汗が浮く。
3億の証拠金。負け組の客たちが一瞬で消える中、黒田のような勝ち組の層を繋ぎ止め、彼らの資金を枯渇させるのではなく、回転させることで、組織は粗利を吸い続ける。久保は、自分が「収奪の執行人」であることを微塵も厭わない。むしろ、この計算された冷徹な支配に、言いようのない充足感を感じていた。
「いいでしょう。指示通り、売りを建てる」
契約書に署名がなされる。
久保は表情一つ変えず、その書面を受け取った。
「ありがとうございます。黒田様の決断は、賢明なものになるはずです」
会議室を出ると、久保はスマートフォンを取り出し、太田黒へ
「商談成立。10億のショートポジションを組み込みます」
とメッセージを打つ。即座に返信があった。「均衡を維持せよ。次の客へ向かえ」。
久保にとって、この仕事は単なる金融犯罪ではない。
太田黒という「深淵」が作り上げた完璧な支配構造を、次世代のリーダーとして継承するための修行なのだ。相沢が妹への執着で脆さを見せるのに対し、久保は太田黒の冷酷な理想を最も純粋に体現していた。
六本木の塔の夜は更けていく。シュレッダーの音が、また一つ、ある富裕層の人生を消滅させる準備を整えている。久保は窓ガラスに映る自分の顔を見た。そこには、かつての自分とは似ても似つかない、冷酷な支配者の仮面が貼り付いていた。
明日には、この黒田の3億が、どんな悲劇的な形となって組織の粗利に還元されるのか。久保は期待に胸を躍らせることもなく、ただ淡々と、次なる「組織の糧の獲得」へと足を進めた。




