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改訂 【 塀の上、綱渡りのハッカーズ 】  作者: 風風風


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D幕 本編 16

 六本木のオフィスの一角、相沢のデスクは、かつての雑踏を忘れさせるほど静謐せいひつだった。

 モニターには「1570」のチャートが刻一刻と波打っている。日経平均が歴史的高値を更新し、市場が狂乱に包まれる今こそ、獲物が最も無防備になる瞬間だ。


 相沢は、受話器を握りしめ、かつて自身のスキームで莫大な利益を得た、ある資産家の男へ電話をかけた。


「――お久しぶりです、佐藤様。相沢です」


 声は驚くほど滑らかで、かつてないほど自信に満ちていた。

 電話の向こうの佐藤は、半年間の「凪」を経て、再び相沢の声に飢えていたはずだ。かつてこの男に、市場の歪みを突くことで桁外れの資産をもたらした相沢という存在は、佐藤にとって「幸運の女神」そのものなのだ。


「相沢君か。随分と音沙汰がなかったな。市場がこれだけ動いているというのに、君の相場観が聞けないのは退屈で仕方なかったよ」


 佐藤の声には、隠しきれない欲望の匂いが混じっている。

 相沢は薄く笑った。獲物は、すでに餌を待ちわびている。


「申し訳ありません。実は、この半年間、より精度の高い『歪み』を抽出するための研究を重ねておりました。日経平均が34年ぶりの高値に達した今、市場には、プロでさえも見逃すような『特定のレバレッジ銘柄における異常な収支バランス』が生じています。今なら、あの時以上の高効率で運用が可能です」


 相沢の言葉は、佐藤の理性を少しずつ麻痺させていく。「1570」というレバレッジ銘柄の激しい値動きに、過去の成功体験が重なる。佐藤は何も疑わない。自分が見ている世界が、相沢と太田黒が作り上げた「舞台」であることなど、知る由もないのだ。


「……10億の玉を建てる為の3億だけ、用意すればいいのか?」


 佐藤の呼吸がわずかに荒くなる。

 相沢は、冷徹なまでの冷静さを保ちつつ、獲物の心の扉を全開にさせる。


「ええ。今回、私どもの組織が構築したシステムにより、市場のノイズを完全に排除した運用が可能になっています。佐藤様の10億という玉が、この市場の波において、どれほどの爆発力を秘めているか……想像できるはずです」


 相沢にとって、この商談は単なる営業ではない。

 新宿の公園に佇む妹を見つけ出すための捜査資金であり、両親を養うための生活の源泉だ。彼の中には、罪悪感など微塵もない。むしろ、自分たちを切り捨てた社会の富を、こうして手際よく「還流」させているという高揚感さえある。


「分かった。全幅の信頼を置こう。指示をくれ」


 通話が切れた。

 相沢は端末を操作し、太田黒の管理する枠内へ、新たな巨大な建玉を流し込む準備を整える。画面上の数字が、佐藤の10億の玉を受け入れ、緩やかに変動し始める。この瞬間、組織の口座にはまたひとつ、確実な粗利への道筋が刻まれた。


 ふと、相沢は窓の外を見た。

 六本木の夜景が、無数の光の粒となって眼下に広がっている。あの光の一つ一つに、誰かの人生がある。佐藤のような富裕層も、自分たち配下も、そして街を彷徨う妹も。すべての人生は、結局のところ、太田黒が操るこの巨大な永久機関の「燃料」として消費されていくのだ。


 相沢は深く息を吐き、次の獲物へと視線を移す。

 デスクの上には、まだ何人もの富裕層の名が並んでいる。彼らに甘美な夢を見せ、レバレッジという名の劇薬を飲ませる。そして、組織が吸い上げた富で、自分たちのささやかな救済を完成させる。


 オフィスでは、他の72人の配下たちもまた、同じように受話器を握りしめ、獲物たちを「1570」という名の渦へと誘導していた。シュレッダーの音も、怒号もここにはない。あるのは、ただ静かに、しかし確実に富が移動していく、洗練された「収奪のルーチン」だけだ。


 相沢は確信していた。

 この均衡は、永遠に続くはずがない。いつか必ず、警察か、あるいは税務署という名の影が、この塔の入り口を叩く日が来る。だが、その時が来るまで、自分たちは太田黒と共に、この甘美な毒杯を注ぎ続けるだろう。


「次を、始めようか」


 相沢は再び受話器を手に取り、新たな獲物の番号をダイアルした。

 その指先は微塵の迷いもなく、六本木の空気に冷たい残響を残した。組織という名の巨大な牙が、また一人、獲物の喉元へと深く食い込んでいく。その先にある結末が、どれほど残酷で悲劇的なものであろうとも、今の相沢にとって、それはどうでもいいことだった。ただ、目の前の数字を合わせ、妹の行方を追うための金を生み出すこと。それこそが、今の相沢弦太郎にとっての、唯一の正義であった。

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