43. 荊《うばら》の記憶 1
◆片桐楼紗◆
「ねぇママ、あの子ってばいつもあそこに座っているわ」
ピアノのお稽古へ向かう車は、途中で必ず信号待ちをする場所があった。後部座席に座る私は、窓の外を見て、一人の女の子を指差した。
建ち並ぶ団地前には公園があった。園内の地面は無造作に雑草が生え伸び、遊具も錆びて茶色くなっている。ちゃんと整備されていない印象を受けた。その公園には、かまくらを縦に半分に割ったような遊具があり、少女はいつもその中で膝を抱えていた。運転するママは、ハンドルを握ったまま答えた。
「そうなの? 楼紗のお友達?」
明らかに興味の無さそうな声だった。
「ううん。知らない子……いつもあそこに座ってるの。今日はなんだか様子が変よ。お鼻とお口が赤く汚れているわ」
私がそう伝えると、ママはようやく目の前の赤信号から視線を外して寂れた公園に目を向けた。女の子の姿を確認すると、ママはハザードランプのボタンを押してドアを開いた。
「楼紗はここに居て」
そう言い残すと、ママは膝を抱えたあの子の元へ駆け寄り、ハンカチで顔を拭いた後、その体を抱きしめた。
空は暗くなり、遠くで雷の音が聞こえると、しとしとと降り出した雨がガラスを伝う。
私は雨で濡れたガラスの向こうの二人をじっと見ていた。
これが、私と彼女との出会いだった……
自分をハルナと名乗る彼女を、ママは車に乗せ、私の隣に座らせた。ドアを閉めなかったのは、誘拐と思われたくなかったからなのだろう。
私の隣で俯いて座るハルナの顔は、血と汗で汚れて黒ずんでいた。着ている服も髪もボロボロで、嫌な匂いがする。私はハルナに水筒のお茶を汲んで渡し、リュックに入れてあったクッキーを手渡した。
ハルナは驚いた顔を私に向けた。この時初めて目が合った。顔は汚れているけれど、目鼻立ちは整っており、可愛いよりも先に美人だと感じた。
──ハルナの話によると、家は団地の一室にあり、父親と二人暮らし。父親は仕事もせずに昼間から酒を飲み、家にこもりっぱなしでハルナを学校へ行かせておらず、会話もほとんどなかったという。
父親はたまに家を出ると三、四日後に帰ってくる。その時にハルナに数千円を手渡し、ハルナはそのお金でなんとか命をつないでいた。
そのことをハルナ本人から聞いたママは、涙を流してハルナを家に連れ帰った。後でパパに怒られてしまうと思っていた。でも、家に帰ってもパパは怒らなかった。むしろママと同じで、ハルナの境遇を聞いて心を痛めた様子だった。
パパは知人が勤めている児童相談所へ連絡をした。その結果、来週の月曜日までハルナを家で預かることになった。
突然のことだったけれど、姉妹が欲しかった一人っ子の私はとても嬉しかった。
その日はハルナとママと三人でお風呂に入った。ハルナの痩せた体は骨が浮いていた。私とママはそのことには触れず、ハルナの髪を洗ってあげた。
お風呂からあがり、私のおさがりのパジャマを着せた。全身が綺麗になったハルナはすごく美人さんだった。パパもママも驚いた。
やがて夕飯の時間になると、みんなでテーブルについた。ハルナの前には私たちが普段たべているママの手料理が並べられた。
「た、たべてもいいの?」
ハルナが伏し目がちにそう尋ねると、私は答える。
「もちろんよ、ハルナ。ママの料理は世界一おいしいんだから残しちゃダメよ」
ハルナは料理をじっと見つめたあと、めちゃくちゃな握り方で箸を持ち、お皿を持ち上げずに、犬のようにママの料理を口に運んだ。私たちが呆然とその様を見ていると、ハルナは料理を口いっぱいに含んだまま、ポロポロと涙を流しはじめた。
「あったかい……おいひい……」
涙するハルナを見て、私はこの子を守ってあげたいという気持ちになっていた。きっとパパとママも同じ気持ちだったと思う。食後、すぐに眠りに落ちたハルナをパパはベッドに運んだ。そして三人で話し合い、この土日はハルナのために精一杯尽くそうと決めたのだ。
だけど、彼女との関わりが、私たち一家が崩壊するきっかけになってしまうなんて、この時は思ってもいなかった。
*次回、『荊の記憶2』




