第35話:聖女伝説
王都の朝は、いつもより少し騒がしかった。
市場の石畳を歩く人々は、野菜や魚の値段よりも、ある一つの噂を口にしていた。
「聞いたか? あの方だよ」
「ええ、王宮にいるっていう……」
「聖女様だろ?」
その言葉は、まるで風に乗る花粉のように、王都の隅々へと広がっていく。
果物屋の主人が腕を組む。
「王族暗殺の夜、あの方が祈ったら王子殿下が助かったって話だ」
パン屋の女将が頷く。
「反乱の鎮圧の時もよ。怪我人に触れたら、血が止まったって」
「それにこの前の夜だ」
荷馬車の御者が声を低くした。
「魔物が王都に近づいた夜さ。あの方が祈っていたら、急に魔物が引いたんだとよ」
人々は顔を見合わせた。
誰かが小さく呟く。
「……神の加護だ」
沈黙のあと、別の誰かが言った。
「聖女様だ」
その言葉が、確信に変わるまで時間はかからなかった。
子供たちが教会の前で祈る。
「聖女様が王国を守ってくれる」
老婆が胸の前で手を組む。
「神はまだ、この国を見捨てていない」
そして人々は、王宮の方向を見上げた。
そこに、聖女がいるのだと信じて。
その頃、王宮では。
宰相が静かに報告していた。
「現在、王都ではセレフィーナ嬢を“聖女”とする噂が広がっております」
長い会議卓の向こうで、王子が眉をひそめる。
「……聖女?」
騎士団長が腕を組んだ。
「城門には既に巡礼者が集まり始めています」
「巡礼者?」
「ええ。聖女様に祈りを捧げたいと」
王子は小さく息を吐いた。
「神殿は何と言っている」
神殿代表の老神官が首を振る。
「神殿として正式な認定はしておりません」
しかし彼は続けた。
「ですが、民衆の信仰は既に始まっております」
会議室が静まり返る。
宰相がゆっくり言った。
「問題は二つです」
「この噂を否定するか」
「それとも――利用するか」
王子は何も答えなかった。
同じ頃。
王宮の庭園。
セレフィーナは花壇の前で立ち尽くしていた。
侍女が慌てて駆け寄る。
「セレフィーナ様!」
「どうしたの?」
「街で……その……」
侍女は言いにくそうに口を開く。
「あなた様が、聖女様だと……」
「え?」
セレフィーナは瞬きをした。
侍女は説明する。
王子暗殺未遂の夜の祈り。
反乱の負傷兵の治療。
魔物が退いた夜。
話を聞くほど、セレフィーナの表情は困惑していく。
「でも……」
「私は祈っただけです」
「治療だって、普通に手当てしただけで……」
侍女は苦笑した。
「それでも、皆さんは救われた顔をしているんです」
遠くから歌声が聞こえた。
王宮の外。
巡礼者たちが歌っている。
「光の聖女よ
王国を守りたまえ」
セレフィーナは静かに空を見上げた。
夜。
庭園のベンチに座っていると、足音が近づいた。
王子だった。
「ここにいたのか」
「殿下」
セレフィーナは少し困ったように笑う。
「聞きました……街の噂」
王子は隣に座った。
「聖女様だそうだな」
「からかわないでください」
セレフィーナは小さく息を吐く。
「私は聖女なんかじゃありません」
「知っている」
王子はあっさり言った。
沈黙。
夜風が庭園を通り抜ける。
セレフィーナが言う。
「否定した方がいいですよね」
王子は少し考えた。
「否定すれば民衆は失望する」
「肯定すれば、君は自由を失う」
セレフィーナは俯いた。
遠くから、まだ祈りの歌が聞こえる。
「……皆、救われた顔をしているんです」
王子は何も言わない。
セレフィーナは空を見上げた。
「それでも」
小さく呟く。
「嘘のままでは、嫌です」
王子はその横顔を静かに見ていた。
同じ夜。
王都の外の丘。
黒いローブの男が、王都の灯りを見下ろしていた。
その瞳は、人のものではない。
「……聖女」
男は小さく笑う。
「面白い」
ローブの奥から、低い声が漏れた。
「魔王様に報告する価値がある」
夜風が吹く。
男の影が、闇の中へと溶けていった。
王都の教会。
子供たちが祈る。
ろうそくの光が揺れる。
「聖女様が守ってくれる」
「王国は大丈夫」
その頃、王宮の窓辺で。
セレフィーナは一人、空を見ていた。
誰にも聞こえない声で呟く。
「神様……」
「どうして私なんですか」
答えは、まだない。
だが遠くで。
魔族の影が、静かに動き始めていた。




