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「罪と罰」は基本的に『ありえない』小説である。それは書かれるはずの決してなかった物語である。しかし、それは書かれた。なぜか。
ここに全ての物語が、その脳髄の中で終えてしまったと感じている男を想定してみよう。あらゆる知識、あらゆる物語、あらゆる可能性、あらゆる否定性、この世界そのもの、その全てはこの男の脳の中でもうその全てを終えてしまった。それらは全て探索済みであり、理性はどこまでも浸透し、そして全てを食い尽くした。もう全てはこの男の脳内で終わっていたのだった。この世界は、この青年の頭脳の中でもうとっくの昔に終わってしまっていた。世界とはもう、古びた遺跡以上のなにものでもなかった。にも関わらず、この男は歩き出す。この青年は、屋根裏部屋の汚らしい部屋から、最初の、汚辱に満ちた一歩を踏み出す。もう、世界はこの青年の頭の中で終わっていたのに。それは、なぜだろうか?
そして、この男こそがラスコーリニコフである。「罪と罰」という物語は、ありとあらゆる物語が終わった後にはじめてはじまる物語なのである。そういう物語なのだ。
ドストエフスキーが「罪と罰」でやった事は丁度、デカルトやセルバンテスがやった事に似ている。ラスコーリニコフはあらゆる障壁をなぎ倒して前に進む。そしてその中でも最大の障壁は、自身の自己意識そのものである。だから、彼の物語は常に、彼の脳髄と、あるいは理性、良心、そういうものがもはや一つの意志となって彼に襲いかかるーーそういうものとの闘いである。闘いは現実ではなく、頭脳の中に、観念の中に写された。しかし、これこそが現代の現実なのだ。闘いは僕達の脳内で繰り広げられ、現実はそれを反映するにすぎない。
しかし、セルバンテスにおいてすでに、それはメタ小説にとなって現れていた。その闘い、目に見えない決闘は。これは非常に意味ある事だ。ラスコーリニコフの脳髄においては、全ての物語はもはや終わっていた。だから、ラスコーリニコフは終焉から一歩を踏み出す。これはデカルトにしろ、セルバンテスにしろ、全く同じ事である。騎士道物語、あるいはスコラ哲学のなかで、ドグマ化され、成立された過去の事象、学問、物語の中で全ては充足していた。世界はそこで安堵しきっていたのである。カントにしろ同じ事だ。しかし、それを懐疑論の一撃が切り裂く。そしてその混沌と血みどろの中を、人は進まなければならないのである。ここに最初の一歩がある。思うに最初の一歩を天才達に歩みださせるのは、常にそれ以前の充足しきった社会、その終焉である。普通の人々は終焉が来たらそれがおしまいだと感じ、店じまいを始める。しかし、一部の不羈の者達は、終焉こそが最初の一歩を進めるチャンスだと捉える。こうして常識は越えられる。こうして世界は始まる。この者の脳髄の中で、最初の第一歩が記される。
しかし、ラスコーリニコフの一歩はあまりにも血に塗れていた。それには肉の匂いが、腐臭が漂っていた。しかし、ラスコーリニコフは彼の脳内でそんな血も肉もすでに、清潔な論理によって漂白していたはずだ。今も、人々は美しい論理、あるいは正論なるものによって、血と肉の匂いを漂白するという方法を取っている。東京都内で奇妙なカルト宗教団体が毒ガスを撒いた。そこで人が幾人か死んだ。すると、人はこの宗教団体を異常者だと断じた。これは、全く自分達とは異質な存在である、と。…しかし、本当だろうか? 血の匂い、肉の匂い、その腐臭はいつの間にか、正義の言葉、断罪の言葉、清潔な犯罪心理学者の言葉に取って代わられる。そして、実際に傷を受けたものだけが、肉の痛みを生涯に渡って感じつづなければならないのかもしれない。
スターリン政権下のソ連では、全ては清潔な論理の旗印の元に進行していたが、その下に血と肉は埋もれていた。粛清という言葉が示すように、清める為に血が必要だった。しかし、あらゆる犠牲を払って得られた平和と秩序にどんな意味があるだろうか? ドストエフスキーは僕達にこう問うかもしれない。君は、自分の隣人を蹴落とす事によって得られた平穏で、真に安楽に、幸福に生きる事ができるだろうか? 「できる」と、人は断言するかもしれない。いや、断言するだろう。しかし、それは本当だろうか? 今、僕は人々の口に聞いているのではない。僕は人々の「存在」そのものに向かって問いかけているのだ。
ラスコーリニコフは最初の一歩を踏み出す。しかし、それは余りに血に塗れた行為だった。ラスコーリニコフは金貸しの意地汚いと老婆と、その義理の妹を斧で惨殺する。そしてその行為を起点に、彼は再起するはずだった。彼は意地汚い金貸しの老婆を殺して、そして奪った金を元手に、未来ある若者たる自分を蘇生させるつもりだった。しかし、そんな事は机上の空論にすぎない。現実にはそうは行かない。だが、しかしラスコーリニコフに何より辛かったのは、彼がそんな事を全て知っていたという事だ。ラスコーリニコフは自分のこれからする事、そして自分のしている事が机上の空論にすぎないという事をおそらく誰よりも深く知っていた。だから、本来彼に、あんな殺人は不可能だったのである。そして、実を言うとーーこれは奇妙な事だったが、彼は最後まで殺人を犯せなかったのである。あるいは、殺人を真に可能にしたのは、ラスコーリニコフが斧を振り上げる前ではなく、振り上げた『後』だったのである。こんな描写がある。
「彼は斧をすっかり取りだし、なかば無意識のうちに両手でそれを振りかぶると、ほとんど力をこめず、ほとんど機械的に、頭をめがけて斧の峰をふりおろした。そのときは、まるで力がなくなってしまったかのようだった。だが、一度斧をふりおろしたとたん、彼の身内には新しい力が湧いてきた。」
彼の身の内に力が湧いたのは、斧を振り下ろす前ではなく、振り下ろした後だったのである。しかしながら、殺人の意味、血と肉の意味は彼の脳髄を華麗に通行する。ラスコーリニコフは、ポルフィーリィの言うように、人を殺した後も、青白い天使の顔をして往来をうろつきまわっていた。人を殺した後も、彼の手は血で汚れなかった。…いや、しかし、それはラスコーリニコフの頭の中で作られた、ラスコーリニコフという男の像だけではないのか? ここで、この人物は二重に分裂する。あるいはこの人物は最初から二重に分裂していた。この分裂はドストエフスキー作品において極めて特徴的で、登場人物の内容のほとんどを占めている。ラスコーリニコフの意識、あるいは観念の中で織られた彼の像の手は血で汚れていなかった。しかし、肉体としての彼の手は血で汚れていた。ラスコーリニコフは人を殺せなかった。殺人して金を奪って再起するなど、馬鹿げた話である。彼は最後まで自分の理屈を信じ抜く事ができなかった。にも関わらず彼は夢遊病者のように殺してしまった。自分は人間ではないとラスコーリニコフは信じていた。しかし、こうまで手が血で汚れるとは、どうやら、俺も人間らしい。
スターリンは晩年に精神がおかしくなったようである。スターリンが精神的におかしくなったのは、自分の粛清の報いを自分の心理から受けていたからと考える事ができる。この時、スターリンという人物はラスコーリニコフ的である。しかも、それは成功したラスコーリニコフである。彼はロシア全土を我がものとして、自分自身を神とした。スターリンは神であり、神とはスターリンである。彼の手は血に汚れていない。なぜなら、彼は神だから。これが、理屈である。単純な理屈である。しかし、神にも内臓があり肺腑があり、両手が存在している。その手は血で汚れている。彼が殺した無数の見えない魂は死霊となって彼を包んだ事だろう。唯物論においては当然、霊の存在は否定される。しかし、殺した者の心の中に、殺された人間は宿り続ける。そしてそれが幻視や幻聴のような形を取れば、それは物となる。物質となる。見えるもの、聞こえるものとなる。だとしたら、殺された人間は、消失したはずの人間は、やはりこの世に存在したというのだろうか? 確実で正確な理屈、理論を越えて人間の魂は存在するのだろうか?
現代は傍観者の時代である。人はテレビを、ネットを通して、厳罰を、あるいは様々な声援や非難の声を送る。そこでは肉や血、魂は捨象されている。今僕がこれを書いている時、テレビで、ある芸人が登山企画をしている。世界の高峰に売れていない芸人が昇ろうという企画で、なかなか人気がある。当然、そういう高山に登るという事は本格的な装備や、ガイドが必要であり、そこには当然死の危険性がある。しかし、テレビ画面の中での死というのはなんだろうか? それはまるでゲームのキャラクターの死であり、まるでリアルな匂いのない死である。死というのは厳粛である。しかし、テレビの中の芸人は危険を顧みず、その山に登る。視聴者はそれを応援する。それはまるで地元の野球チームを応援するかのような、軽い、浅い応援、「がんばれー」である。人々の傍観者気分を、死の一撃は打ち砕くかもしれない。死というのは厳粛だが、画面の中では清潔で抽象された映像しか写らない。いつから人は現実をフィクションとみなすようになったのだろうか。そして現実主義者を自称する人間に限って、この現実をゲームと捉え、自在に遊んでいるかのような振りをする。彼らに、ラスコーリニコフの殺人が、その死、魂、肉、血、罪、混沌ーーーシェストフ流に言うなら、カントが「物自体」の領域に斥けたそれらが、画面の外側のカオスが、再びやってくる日はあるのだろうか?
ラスコーリニコフは斧を振りかぶり、それを振り下ろした。しかし、彼の夢は覚めなかった。ーー小林秀雄の言う通りだ。ラスコーリニコフの夢はついぞ、覚めなかった。彼は夢から夢へと彷徨する。彼の理性は夢と闘う。しかし、どうやら無意識の、夢の勝利は決定的らしい。ラスコーリニコフはポルフィーリィに負けるわけでもなく、スヴィドゥリガイロフに負けるわけでもない。彼は自分の無意識に敗北するのであって、しかも、その敗北は彼にとってやがて来るべき勝利をもたらすものでもある。