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「罪と罰」におけるラスコーリニコフの、世界からの疎外ーーそれはそれまでの文学史上に類を見なかったものであろう。我々は高度な人間社会をこの世界において、作り上げてきた。だが、それによって同時に、我々がその世界から疎外された時の隔離感、その孤独はますます深いものになる。過去において、人間は自然から疎外された意識であった。それが最初の物語だ。しかし、今や、疎外されるのは人間からである。だから、人間から疎外された人間というのはもはや、人間ではない。非ー人間である。ラスコーリニコフは最初の非ー人間である。
先にあげた「神聖かまってちゃん」というバンドはその初期から一貫して、社会に取り残され、疎外された個人の叫びを楽曲としてきた。もちろん、それは成熟した思想形態を取っておらず、大抵は小学生の幼稚な叫びのようなものである。しかし、叫ぶ事だけが、真実であると、世界に向かって叫ぶ事だけが自分が人間の一部である事を確かめる術であるという哲学を、「神聖かまってちゃん」というバンドは確として持っている。現代において、人間世界から疎外されるとはいかなる事か? それは人間達が作り出した像、その秩序から取り残されるという事である。人々は、メディアなどを通じて、知らず知らずの内に、人間に関するある共同無意識のようなものを作り上げる。そしてそれから脱落すると自然に、その者は脱落者の烙印を押される。しかし、脱落者もまた人間ではないのか。
人間というものはいつから完全にオフィシャルな存在となったのだろうか? その発祥はあるいは社会主義やナチズムに由来するかもしれない。そこでは、個人の人格や個性も社会集団の中に溶け込んだ存在として想定されている。そこでは人間は純粋に、「社会的存在」である。だから、そこでは、社会の承認があるからこそ、人間が成り立つという図式になる。我々の個性、実存とは、人は色々な事を言うが、しかし、社会との見えない黙契を基盤としている。今のインテリ批評家達は様々な事を言うが、彼らの背後にあるのは「自分達はインテリである」という自己意識である。そしてそのような自己意識は社会の共同観念とつながっているために、結局、その手の批評では、自分自身という存在を表現できず、したがって常に、世界に対してどれほど威張っているように見えても、それは世界に対して隷従した言葉でしかないのである。自分が社会に繋がれていて、その鎖を意識しなければ発語できない言葉など、大した価値があるはずがない。だから、小林秀雄のような優れた批評家一人に(あるいは吉田秀和)他の多くの批評家らは勝つ事ができない。小林秀雄にどんな欠点があるにせよ、彼はひとりぼっちで世界に立ち向かっている。そこでは、精神の座がまるで、他の批評家らとは違っているのである。従ってこの根本的相違は才能や努力や知識量の違いではない。もっと根底的なものが根っこにある。
「神聖かまってちゃん」にしろ、ドストエフスキーの「地下室の手記」にしろ、そこには世界に向かっての抗言があり、叫びがある。それは叫ぶ事によって位置づけられる疎外である。しかし、「罪と罰」においては、それは物語として結晶化する事が可能になった。では、ここにはどんなマジックがあったのか。
例えば、キルケゴールのような人も、結局は叫びに終始したと考えられる。彼は世界に抗言するものである。しかし、彼は最後に世界に足をつける事ができない。叫ぶ事、抗言する事、絶望する事、それらが彼のアイデンティティを規定しているので、彼はそこから終生離れる事ができなかった。キルケゴールは、恋人と婚約しながらも、自ら婚約破棄した。その理由は様々に詮索されているが、結局、キルケゴールは地面に足を着ける事ができなかった。彼は自由でありたかった。あるいは、もうすでに彼は著作の中で自由であった。もし、彼が孤独でなくなったら、彼は自由でなくなるかもしれない。大地に足をつければ、空を飛び回る自由は奪われてしまうかもしれない。だから、キルケゴールはその二者択一に身を切られるような辛い思いで、どちらかを決断しなければならなかった。しかし、彼が結婚したとしても、決してうまくいかなかっただろう。結局、キルケゴールはもうすでに、自分という存在と決定的な、永遠の契りを結んでいたのだ。そこに他人が入ってくる事はまずない。
しかし、ラスコーリニコフはそのような地点から一歩歩く事ができた。そんな事ができたのは、「地下室の手記」ですでに、ドストエフスキーが、このような内的な主人公に他者と出会う事を可能としていたからである。
ラスコーリニコフが自身の罪を、殺人の過去を告白したのはソーニャに対して出会って、親友のラズミーヒンや真面目な妹のドゥーニャに対してではない。結局、これら善良な人々は、ラスコーリニコフの事を理解しはしないであろう。なぜなら彼らは『彼岸』にいるのだから。ロシアの、泥土のような社会にも依然として彼岸はあった。だとすると、犯罪者ラスコーリニコフの此岸とは一体、どんなものだろう? ラスコーリニコフが罪を語るのは、売春婦たるソーニャであり、そこにラスコーリニコフは自分との同一性を認める。
売春婦が作品のヒロインとなるとはどんな事だろう? 誰しもが身を売って生きたくはない。しかし、誰しもが生きはしたいのである。誰もが家族の事が大切である。であれば、その為にーーしかし、それはもう過去の話である。今では我々は、ほんの興味本位の為に、あるいは『何かを変えるために』アダルトビデオに出演する女性がいる事を知っている。それは事実、いるであろう。であるならば、そういう決断とは何か? 金銭が目的ではなく、社会状況に追い込まれてでもなく、ただ自分の意志ーー軽い気持ちで、そうした世界に乗り出す女性とは? 我々の社会では個人はこのように、宙に浮いて生きているのであろうか? 人との触れ合いは、映像の中にしかないのだろうか? あるいは、我々の『触れ合い』なるものは全て、すでに映像によって先取りされているのだろうか? 我々に他者と出会うその機縁はあるのだろうか、一体?
ラスコーリニコフは自分の罪をソーニャに語る。しかし、彼はなぜ、自分が語らなければならないのか、未だによくわかっていない。彼はよくわからないものに背中を押されて自分の罪を語るのである。ソーニャはラスコーリニコフを理解する。しかしながら、ソーニャという人物は確かに、社会の中では特異な、注目すべき人物かもしれないが、本当の所はただそれだけの女性ではある。ソーニャが意味を帯びるのは、ラスコーリニコフの光を反射するがゆえである。小林秀雄の言うように、「罪と罰」の世界、その登場人物というのは全て、ラスコーリニコフの自意識の光を反射する事によって輝く何かである。例えば、ラズミーヒンとドゥーニャの恋愛、あるいはその他多くの登場人物は、ラスコーリニコフがいなければ、互いに結びつく事はできない。だから、ラスコーリニコフは最初にして最後の存在である。そして、実は、ポルフィーリィこそが、成長したラスコーリニコフである。簡単に言えば、ドストエフスキーは四十何年の苦闘に満ちた人生を通して、ラスコーリニコフからポルフィーリィまでの道のりをやっと歩いてきたのである。ラスコーリニコフが犯罪を犯す事が可能なのは、それを最後に受け止めるポルフィーリィがいるからである。もちろん、ソーニャも愛によって受け止める。しかしそれだけでは足りない。老婆惨殺事件とは何か、解明する人間が必要である。だから、この小説ではこの事件は、作者ドストエフスキーの手によって完全に解明される。…しかしながら、現実ではそううまくいくとは限らない。オウムサリン事件も、秋葉原の連続殺傷事件も、その意味は、価値は、あるいはその非道さの根源は、遂に闇の中に消えていったのではないか。現実には謎を解くポルフィーリィがいないままに、事件は起こされた。しかし、「罪と罰」には作者がしっかりと統御する、ポルフィーリィという人物がいるのである。




