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 「そりゃ、信じられないのはわかりますがね、妙に理屈をこねないことですな。あれこれ考えこまないで、すなおに生活に身をまかせる。そうすれば、心配はいりません、ちゃんと岸辺に運んでくれて、しっかり立たせてくれますよ。どんな岸辺だというんですか? どうして私が知っています? 私はただ、あなたはまだ長く生きる人だと信じているだけですよ」


 「まあ、あなたはあまりにも長い間、だれの目にもふれなくなるかもしれないが、それがなんです? 問題は時間の中にあるのじゃなく、あなた自身のなかにあるんですからね。将来あなたが太陽になれば、みながあなたを目にすることになりますよ。太陽はまず第一に太陽にならなきゃいかん」



 ポルフィーリィは殺人を犯したラスコーリニコフに自白を進めた後に、このように説教する。自白して悔い改め、そして再び人生をやり直せ…。なんと、紋切り型の説教なのだろう! ドストエフスキーという大作家が最後に辿り着いた解答というものがこうまで陳腐であっていいものか? しかし、そんな事をドストエフスキーは一番よく知っていた。彼はかつてラスコーリニコフだったのである。しかし、彼の長年月の人生が、彼に、人生とは何かを思い知らせた。そしてそこで得た結論ははたから見れば陳腐なものだったかもしれない。しかし、人生そのものが陳腐であるはずがない。陳腐な人生など世に一つもない。あるのは、自分の人生を陳腐だと思う人間の観念だけである。人生は陳腐ではない。決して。だとしたら、そこから得た結論が、一見陳腐に見えたとしても、それは本当はそうでないのではないか。

 小林秀雄は「罪と罰について Ⅰ」でこう書いている。

 

 「ラスコオリニコフの肯定的な面は遂に道化に終わっているが、その否定的な面は朗々たる歌となっている事に注意すべき事である。」


 しかし、小林秀雄は明らかに、ドストエフスキーの作品のある面を見逃している。そしてそれはシェストフも同型と言ってよいだろう。彼らにとって必要だったのはもっぱら意識の暗黒面だけであり、それは小林の「Xへの手紙」などを見れば明らかだ。しかし、意識の肯定的な側面、いやドストエフスキーが最後に辿り着いた結論、それが肯定的な輝きを持つ事が真に可能なのは、それが長い否定と懐疑を経ているからである。ここで、あの「カラマーゾフの兄弟」の中の逸話が思い出される。その逸話では、ある罪人が途方もなく長い道のりを歩く事を、あの世で宣告された。そしての罪人はその距離を何とか歩ききり、そしてそのゴール地点にあった最後の扉を開き、その中の天国の光景を見るやいなや、彼は「それ」を得るためなら、自分は自分の歩んできたその何兆倍もの距離をも歩き通してみせるぞ!と叫んだという話である。


 この時、罪人が見た「天国」が何であるかという事は一切明かされてはいない。それと同様に、ラスコーリニコフが「罪と罰」のラストの場面で改心する、その時の心情の克明な描写もされてはいない。そしてそれは丁度、ドストエフスキーが自身の信念更生について語った事と全く一致する。ドストエフスキーは自身の信念更生、その思想の変化を語り難いものとみなしていた。彼は元は、シェストフの言うように、西欧的な人道主義を基礎においていたのだが、しかし、その思想は変化した。その直接の原因を、研究者らはシベリアの監獄に求めるだろう。多分、それは正しい。しかし、人の内奥にはもっとよくわからない、目には見えない、長い時間を必要とする生理的な変化のようなものがあって、それが次第に表面に現れると共に、その人間はかつての信念を変更せざるを得なくなる。そしてその時、ラスコーリニコフのあの頭脳偏重のーー丁度、我々のようなーー認識方法は打ち捨てられ、新たな人生に対する態度が決定される。その時、この人物に真理なるものが示されるのかもしれないが、しかしそれはいわく言いがたいものである。しかし、それはピラミッドの頂点のように、最後の一石として必ず必要なものである。あらゆる懐疑、否定、罪に意味をもたらし、どんな惨劇をも意味あるものとして、前進する未来の為の何かとする最後の一石、それが真理なのだが、しかしそれこそは、暗闇を通して光をあぶりだすという方法でしか我々人間には描く事ができないものなのだ。ドストエフスキーはその事を知っていた。確かに、ドストエフスキーは「罪と罰」のラストで、次に書かれるべき新たな物語の可能性を呈示した。しかし、彼がその物語を書く事は決してなかった。ドストエフスキーは「罪と罰」の世界に留まった。とどまり続けた。とどまり続ける事で彼は進化した。しかし、「罪と罰」の最後でドストエフスキーは嘘を書いたわけではない。その物語はむしろ、ドストエフスキー死後から何十年も経った『我々』が書くべき物語なのである。僕はそう思う。ラスコーリニコフは一つの物語を終えた。ドストエフスキーも、その生涯を『罪と罰』からの発展に捧げた。しかし、その後も物語は続く。するとそれは? それは、我々が、ドストエフスキー以降の歴史の時間軸の中で存在する我々こそが描く物語である。あるいは我々自身が歩む物語、その生である。ソビエトは崩壊し、高度資本主義はやってきた。我々はもう次の物語を用意しなければならないだろう。



 ドストエフスキーの作品における肯定的な面は、小林秀雄もシェストフも同様に、無視するか斥けるかしている。ドストエフスキーは「作家の日記」でさかんに真理を吐露しているが、しかし、光というのはそれだけでは意味が無い。ドストエフスキーはその事を知っていた。光が意味を持つのは、あくまでも闇を通してである。現行のこの世界そのもののように、ぼんやりとした明かりの元では、光もまた暗いのである。「我々がこんなにも不幸なのは、我々が幸福だという事を知らないからだ」 ドストエフスキーの到達したこの真理は我々が、闇をくぐらなければ光を発見できない事を示している。光は、闇の先にある。シェストフや小林秀雄は自身の自意識の闇を深くかいくぐり、それぞれに各々の思い描く自分自身を発見した。しかし、彼らがドストエフスキーのような光を持つには至らなかった。何故か。答えは簡単である。小林秀雄にしてもシェストフにしても、彼らは世界という光に対して自身が闇であるという態度を選択する事によって、その文学や哲学を開花させたからである。では、世界とは本当に光か? シェストフがどう言おうと、彼の思想に意味があるのは、ヒューマニズムや人道主義のかつての巨大な効力のためである。シェストフのパンチに重みがあるのは、相手がこちらに殴りかかってくるからこその、カウンター的なものである。小林秀雄の自己意識に意味があるのは、既存の作家、批評家らが薄っぺらい自意識しか持っていながためである。例えば、山本夏彦のエッセイが天才的なのは、現代がろくでもない時代だからである。しかし、それらの天才達の成した事業は全て、対象を否定するその行為にその源泉がある。という事は、敵は彼らの味方でもあった。ライバルを殺してしまっては、試合が成り立たないからである。


 ドストエフスキーにおいては、そのライバルーーー自分の敵すら、自分の中に取り込む事ができた。それが、ドストエフスキーの作品に巨大な物語性がある理由だ。「悪霊」におけるチホンとスタヴローギンの対決は有名だ。「悪霊」のクライマックスはこのシーンと言っても良いだろう。なにせ、スタヴローギンにかかると、どの登場人物も色あせてしまうし、スタヴローギンと真っ当に対決できるのはチホンだけなのだ。しかし、チホンが真理を体現できるにしても、ドストエフスキーは聖職者にはなれなかった。ドストエフスキーの中には依然としてスタヴローギンが、ラスコーリニコフ、イワンの懐疑、否定、罪がうずまいていた。だが、彼はその先を知っていた。だからこそ、彼はポルフィーリィやチホンを創造する事ができたのである。例えば太宰治の「人間失格」にはどんな救済の手段もない。最後のバーのマダムの言葉が救済の代わりにあたっているが、別に葉蔵は社会的に救われるわけではない。葉蔵は敗北したままである。しかし、敗北は最後にはどこに行くか。それは世界においてどんな意味があるか。そしてその全てを解明するには、否定だけでは足りないのである。太宰もまた、世界という『イエス』に対して、作品という『ノー』をぶつけた作家だった。そこでは想定されていた世界に対して、各々の懐疑、否定、批判をぶつける事が意味のある事だった。端的に言って、そうした中では、一番価値ある否定こそが一番意味のある行為なのである。しかし、否定だけでは、世界を創造するに足りない。だから、シェストフも小林秀雄も、作品の否定的な面に注視する事で終わる。両者の意識はラスコーリニコフの脳内を駆け巡るが、しかし本質的にその外には出られないのだ。なぜなら、小林にもシェストフにも、彼らなりのポルフィーリィがいないからである。特に、シェストフにおいてはそれは極めて特徴的である。シェストフにとってドストエフスキーが「地下室の手記」で終わっていてくれればどんなにありがたかった事だろう。しかし、ドストエフスキーはその後も歩んだ。ドストエフスキーは世界を創造した。そしてその為には、真理という肯定的な側面が、最後のひとさじ、最後の結論として、全てを引き締める最後のパーツとして必要だった。そしてドストエフスキーはそれを自分の内部に持つ事ができた。だが、シェストフや小林秀雄にとってその最後のパーツは彼らの外部にあった。つまり、世界が、今存在しているこの世界、現実そのものがそれである。彼らの否定性が確かな意味を持つためには、世界という確固たる現実がどうしても必要だったのである。彼らは、それらがどんなに愚かなものであっても、それから離れられなかった。それはいわば、愚者の間違いを指摘する事により、知を露わにする賢者のようなものである。だが、ドストエフスキーは愚者と賢者を同時に自身の中に持つ事ができた。だから、ドストエフスキーはその両者の差異を利用して、広大な世界を作る事に成功したのだ。


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