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 もし、自意識のバリアーが最大限に強化されていたとしたら、それを破る者は誰一人としていないだろう。しかし、心の奥底で、この人物が他人を求めているのなら、話は別である。ひょっとすると、この人物は、自分が心の底から求める他者に出会う事が決してできないという事を、四十年近くの人生で徹底的に悟ったからこそ、このように他人を遠ざけているのかもしれない。だからこそ、この人物は絶えず自分の希望を殲滅する事を自分に強いられてるのであり、それが故にこの人物は絶望の塊的な存在であるのだ。

 しかし、それを理解する他者が存在した。その箇所を引用してみよう。


「だがこのとき奇妙な状況が突発した。

 僕は何でも本を通して考え、想像し、世の中のすべてをかつて自分が夢の中で描き上げたそのままに空想することに慣れていたので、まったくその時すぐにはその奇妙な状況を理解しなかった。さてどうなったかというと、僕に傷つけられ、踏みにじられたリーザが僕の思っていたよりもはるかによく理解していたのである。彼女はこの一切の中から、女が、心から愛する時、いつでも何より先に理解することを理解した、すなわち、僕自身が不幸であることを。」


 これは、小役人のこのどうしようもない男が、ひょんな事から出会った娼婦に、自分自身の憎悪を洗いざらいぶちまけた後の一節である。娼婦であるリーザはこの小役人に、気まぐれから自宅に招かれており、そしてリーザはこの自宅を訪問した。しかし、この家はみすぼらしい家であり、また小役人は自分が貧しい暮らしをしている事を恥辱の極みと感じている。そして彼は、そんな鬱積した感情の為に、思わず、自分の、世界に対する、そしてリーザに対する憎悪をぶちまけてしまったのだった。その悪口雑言はこんなものである。


 「それじゃ、こっちから言ってやろうか、きみが何のために来たか。きみが来たのはだね、あのとき僕が同情の言葉をかけたからなのさ。そう、それできみはふわふわとなってしまって、また《同情の言葉》をかけてもらいたくなったのさ。だったら、心得ておくがいいぜ、はっきりとね、あのとき、僕はきみを笑っていたんだってことを。いまだって笑っているのさ。何をふるえているんだい?」


 この言葉に、これを話している人間との二重性を感じられないなら、その人間にはドストエフスキーを理解する事は不可能であろう。また、『人間』というものを根本的に理解する事は不可能であろう。人間とは一重の存在であると同時に、二重の存在である。『ふわふわとうわついた』人達は、自分を一重に生きているので、他人の甘い言葉に簡単にだまされてしまう。しかし、他人のその一重性、うすっぺらな他人の存在にある程度の確証や、信頼を付与するのが、この市民社会の土台となっている倫理と秩序である。どこそこの誰々は、社会的身分がしっかりしているとなると、その人間はただちに二重ではなく、一重の存在ーーーつまり信用できる存在として人々に認可される。そして、そうでない人間は『信頼できない』。つまり、そうした認識の通用する世界では人は一重に生きている。そしてその一重性を担保するものが、この社会システム、この秩序そのものである。しかし、ここはドストエフスキーの、あるいはシェストフの世界であるので、そういう一重性は通用しない。


 驚く事に、娼婦であるリーザは小役人のこの二重性に気付く。そして二人は抱擁を交わす。そしてここにおいて始めて、小役人の自意識のバリアーは外れ、始めて他人が意味ある存在として感じられたのだった。そしてそれはリーザの方もそうだっただろう。


 ここで物語が終わってくれればドストエフスキーも気楽だったたろうが、物語はそれなりの形で終わらなければならないので、ドストエフスキーはここに一応の終焉をもたらしている。…二人は結局は一緒になる事はできず、離れ離れになり、そして小役人はまた地下に戻って独語を続ける。しかし、この時、小役人を捨て置いて、ドストエフスキーは新たな物語へと旅立っていった。しかし、我々はもう少し、この場所にとどまろう。その必要がある。


 リーザが小役人を理解できたのは、彼女自身が娼婦という悲惨な境遇に身を置いていたからだった。彼女は間違いなく不幸だった。そして彼女の自尊心を保っている唯一の宝は、ただ以前に、ある由緒正しい青年に求愛されたというそれだけの事なのだ。リーザは青年からの恋文を後生大事にしまっていた。しかし、それがリーザのアイデンティティそのものであり、また、彼女はそれによって何とか、この苦しくも辛い人生を正当化し、つまり、「生きて」いたのである。


 リーザが悲惨な境遇に身を落としていなければ、小役人のこの二重性を理解する事は決してできなかっだたろう。つまり、この小役人も、世界に対する憎悪をぶちまける事により、自意識による強固なバリアーを張る事により、そしてむしろその事により、彼もまた何かを求めて生きている事を世界に対して喚き散らしていたのである。しかし、この意味は、悲惨さの裏返しとしての希望というものであり、希望としての希望、絶望としての絶望、犯罪者と一般市民、異常者と正常者を截然と区別して得々としている人々には決して理解できない事であろう。しかし、彼ら二人はもはや、その悲惨さ故に、そしてしかも、悲惨であったとしても何かを求めていたがゆえに二重的な存在であった。だから、彼らは始めて、この場所で、人として他者に出会う事ができたのである。はじめて。そしてこれは悲惨さに魂を売り渡した人々には不可能な出会いであると共に、また悲惨さをゴミ箱に蹴り入れて、自分を正常者の身分に置き、悦に入っている人々にも決して出会う事が不可能な『出会い』なのである。


 ここで二人は互いに、始めて他者に接したのであり、ここで始めて、作者のドストエフスキーの自意識もまた、他者によって反転した形で現れる事となった。この自意識の反転はこの先も、ドストエフスキーの作品の主題となっていく。自意識の反転。だが、実に多くの優れた作家らが、この自意識のバリア、自分自身で自分のために作ったこの堅牢な城から出る事ができなかった。例えば、カフカを見ればそれがはっきりとわかる。カフカは他人に出会う事ができない。カフカの作品はいつも中途で止まる。「審判」では確たる理由もなく主人公は処刑される。それが何故か、その理由をカフカは解明する事ができない。カフカは壁を、ある領域を最後まで突破できないのある。カフカがそういう事を意図的に施したというのは、作家に対する冒涜である。作家というのはもっと真剣に「作品を」生きているのである。カフカの作品はカフカの生の象徴であり、ドストエフスキーの作品はドストエフスキーの生の象徴である。そしてこの場合、ドストエフスキーは自己の限界を越えてその先へと歩んでいったのだった。カフカの作品に、他者が現れる事はなかった。彼は自分の人生を失敗とみなした。彼は、自分の作品の焼却を友人に頼んだ。だが、友人はそれに反した。しかし、そんな事はもうどうでもいい事なのである。カフカの作品が我々に理解され、賞賛され、世界中で研究されようとされまいと、そんな事はもうどうだっていい事なのである。カフカは自らを失敗したと感じた。カフカとはまさに偉大なる挫折である。彼の挫折は確かに偉大だ。しかし、その個人的挫折というものを、世界によって評価されたか否かというそんな点で置き換える事は絶対に不可能なのだ。作家というのは極めて個人的な生き物だ。そしてそこで、世界から取り残され、彼らは彼らの設定した壁を乗り越えようとする。ほとんどの人間は壁が何かすら知らない。カフカは自らが作った壁をよじ登ろうとした。しかし、彼は越えられなかった。そして彼は元来た方へと帰ってきた。彼はどこまでも紳士だった。人に対して優しかった。しかしそれゆえ、彼は最後まで人間と和解できなかったのだ。疎外が彼を包んだ。しかし、彼にはどうする事もできなかった。彼の、カフカの他者へ向けた愛は、彼の自意識の塀の中で孤立した。そしてそのまま彼は生涯を終えた。


 しかし、ドストエフスキーはその先へと歩んでいた。もちろん、そんな事ができた作家というのは極めて稀だった。大抵の作家は、どんなに天才的でも、「地下室の手記」の一歩手前で(あるいは「地下室の手記」の前半部で)止まってしまう。リルケには「マルテの手記」という作品があるが、リルケもまた、ドストエフスキーのように先へとは歩む事ができなかった。あるいは、そんな事には興味がなかったのかもしれないが。


 ドストエフスキーの次なる一歩は「罪と罰」である。そしてここで、最初の、本物の『現代小説』が現れた。書物を読みすぎて自分を勘違いした男の冒険譚である「ドン・キホーテ」が近代小説の元祖だとすると、『罪と罰』こそが現代小説の元祖である。では、次に、『罪と罰』を見ていこう。


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