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 自己意識とは、その特性上、何でも取り込む事ができる。だから、本質的に自己意識には物語性はない。それには、時間による段階とか、起伏とかいうものがない。自己意識はどこまでも走って行く。どこまでも、世界を覆い尽くしていく。そしてそれは、まるで生の内部からは死を決して見る事ができないように、それ自身の終わりを記述できない。だから、それは非ー物語的な存在である。


 カフカやキルケゴールが婚約破棄したというのは彼らにとって重大な事実だった。彼らは心の奥底では、他者を求めていたのに、しかし彼らの無垢を望む心がそれを裏切ったのである。例えば、ランボーには最初から他者がいなかった。だから、彼はアフリカに旅立った。彼は常に、世界よりもはるかに孤独な存在だった。


 ドストエフスキーにおいてはどうだろう? しかし、僕は彼の私生活を漁る事はしたくない。ドストエフスキーがどんな私生活を送っていようと、根底的に、作品の中の世界とドストエフスキーの私生活はあまりにも断絶している。僕は評論家、インテリ達がたやすく考えるように、作家の生活と作品との連続性を信じてはいない。例えば、ネチャーエフ事件から「悪霊」を描く事ができたのはこの世界にドストエフスキーただ一人であった。そしておそらく、今も、ネチャーエフ事件は僕達の身の回りで起こっている。にも関わらず、ネチャーエフ事件こそが「悪霊」を描き得た真の原因であると、評論する事はできる。あるいは作家の私生活に作品の原因を見出したり、作品の原因はその時代の文化的状況、環境である事を指摘するのは簡単である。しかし、そう指摘する者達は自分の身の回りの環境、自分の私生活を活用して壮大な文学作品や文学評論を作ったりは決してしない。なぜそれが不可能かと言えば、彼らにそのやる気がないのでも才能がないのでもなく、因果、原因と結果というのは人の言うように簡単な直線で結ばれているものではないからである。いじめられたから自殺した、と人は簡単に言う。また、自分はいじめられたから自殺するのである、と自分に向かって言い聞かす事はできる。しかし、ひどいいじめを受けた全員が自殺するとは限っていない。自殺と、いじめとのその中間に、個人の実存、深刻な悩み、苦悩が存在する。そしてこの苦悩を軽視するのはメディアの仕事である。しかし、生きている人間とは、ボーリングのピンのように、現実というボールによって簡単に倒れるとは限っていないのである。僕は別に、いじめによって自殺した人間を責めるつもりはない。また「いじめはよくない」などというどうでもいい標語をつぶやくつもりはない。僕はただ、原因と結果との間にある人間の心理的苦悩を尊重したいだけである。そして新聞記事ではそれは捨て去られる。しかし、捨て去られたものの中で、人は本当に生きているのだ。


                    


 「罪と罰」は、何でも取り込む自己意識の世界から飛び出し、そこに因果関係を与えた。そういう意味で、この作品には物語性がある。ドストエフスキーはおそらく、過去の様々な作品の物語的構造を利用しただろうが、その事は対して重要ではない。


 元々、ブラックホール的な自意識というものには、物語という時間軸による起伏は存在しない。例えば、殺人という行為があるとする。老婆を殺し、金を奪い、それで再起するという発想がある。しかし、自意識は先にその可能性を取り込み、そしてそこからもう一歩も動かなくなってしまう。そしてとうとうもう、殺人を犯す必要すら、自分の中に認めなくなる。もうすでにそれは自らの頭の中で起こってしまった事なのだ。


 元々、「セルバンテス」のドンキホーテも、最初に自らの脳内で全てを起こしてしまった存在だった。彼は騎士道物語を読み過ぎて、現実を物語として認識した。そして、それが『物語ではなかった』という、その空想が破れる事に一筋の物語が生まれる。これは当然、異様な物語である。

 物語とは時間的なものである。そこでは、時間軸によって変化が起こり、登場人物達は死んだり、恋愛したり、反目しあったりする。しかし、もしここに一人の登場人物がいて、その人物の脳髄で全ての物事が起こったとしたら、もうそこに物語が存在する余地はになくなる。従って、ここには時間を空間化する自己意識の機能がある。


 実はこの自意識の空間性と、物語の時間性とは互いに相補的な、あるいは互いが互いを乗り越える事によって意味あるものが生まれる、そういう機能というものがある。ドストエフスキーとは若干離れるかもしれないが、それについて書こう。


 最近の若手作家、新人作家達の作品を見ていると、大抵の場合、それらに物語らしいものが巧みにしつらえられており、そしてそれがスラスラと流れていく様子が見て取れる。そしてそれはほとんどよどみなく、何の迷いもなく進んでいく。新人作家らは最初、自分の不安を微かに表現した作品を書いてデビューするのだが、しかし彼らが売れっ子になると(あるいはそう望むと)、彼らはすぐに安易な物語を作り出す。登場人物は当然、ペラペラとした木偶の坊的な存在である。彼らに、自己意識の空間性の問題は存在しなかった。あるいは存在するにせよ、彼らはそれを本質的に意識する事はなかった。彼らは古典作品から何かを学び取り、あるいは過去の娯楽作品を模範とするかもしれない。彼らの口から、フーコーが、サルトルが、ドストエフスキーが、ニーチェが飛び出すかもしれない。しかし、それはただそれだけの事である。僕は結局、小林秀雄と同じ事を繰り返すわけだがーー彼らが作品に「現代の不安」や「現代の焦燥」を表現しようと、彼ら自身は極めて安堵した存在である。彼らは自分が不安でもなければ、本質的に不安になった事もないが、字面だけで知った「実存的」なる不安を作品の中に描き出して得々としている。今は純文学も大衆文学も、全部同じ事である。そこには自意識の問題がなく、自意識の問題があると信じている作家らが、あるいはそんな事は全く考えない作家らがいるだけである。もちろん、別に自意識などどうでもよいかもしれない。しかしそれがなければ、作品における、登場人物の真の価値は失われる。文学とは数字や記号が飛び交う世界ではない。そこには何かしらの内容がある。そしてその内容を構成するものこそが、個人の自意識である。

 自己意識によって人は世界を手中におさめるに至る。だから、それこそが進歩、発展を構成する根底的なものである。例えば、ドラッカーのような、文学とはほとんど関係のない偉大な知識人を想定してみよう。ドラッカーは実に雑多な書物を読みこなす独特な本読みである。彼はあらゆる書物を読み、それを自分の中で一つに結びつける巨大な方法論を持っている。しかし、それだけがドラッカーの偉大さを構成しているのではない。ドラッカーは、その歩みにおいて、経済学や社会学、あるいはその他の様々な限定された分野においての制限を突破するだけの心性を持っていた。ドラッカーが経済学や社会学の領域にとどまっていたなら、彼はノーベル賞をもらえた事だろう。しかし、ドラッカーにはノーベル賞なんてものより、もっと大切なものがあった。それが人々の生活である。我々の生活であり、我々の人生である。その為にドラッカーはあらゆる領域を踏み越える事を別になんとも思わなった。彼には切実な課題があったからである。


 そしてこの時、ドラッカーの脳内では、経済学、社会学、そして実地に組織を見聞した経験などが自在に融合され、そしてそれによって彼の独特な「マネジメント」を生み出した。ここで、自己意識は外側に向かっている。彼は芸術家ではなかったので、そのベクトルは外に向いた。しかし、その自意識の存在が、ブラックホール的にあらゆるものを収集するという事は同じである。あるいはドラッカーが出した結論に至る、その要素はすでに社会に偏在していたかもしれない。全ては、用意された道具を使って組み立てた哲学だったかもしれない。しかし、それこそが自意識のなせる技であり、人間だけができる偉大な行為ーー総合である。


 自意識は空間的であり、また同時に総合的である。今の作家らがすぐに自意識を手放すのは、彼ら自身、カテゴリに分類されるような存在になった方が楽だからだ。人は、楽な方に流れる。不安を感じるよりも、「不安を感じた」とうそぶいた方が楽だろう。しかし、それでは進歩はない。自意識とは、過去を一身に集める現在性である。しかし、文学という分野にはその先ーーー物語性というものがある。そこにはまだ発展の余地がある。つまり、弁証法的に言うならば、元々、過去ーー現在としてあった時間軸を一手に引受け、自らの思考そのものと化する事こそが自己意識の空間性である。ここで一旦は、過去ーー現在という時間性は空間性へと還元される。しかしながら、その先の『物語』においては、空間性は再び時間性へと還される事になる。そしてここで始めて、物語の起伏が生まれる事になる。今の作家らが作っている物語は当然、こんな弁証法は辿っていない。彼らは自己意識を経過せず、物語へと進む。従って、彼らが書く事ができるのは世界によってあらかじめ用意された物語だけだ。自己意識による、現在突破、その破壊がなければ、創造は単に模倣に終わる他ない。

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