地図にない道と、夏の泥の匂い
前日の夜、渡辺さんから電話がかかってきた。
『佐藤くん、明日は朝八時って言ったけど、撤回だ。朝六時に集合な。七時過ぎたら暑くて倒れちゃうから!』
夏の農家の朝は早い。7月の太陽は、朝の六時でもすでに東北の空に高く昇り、ジリジリと肌を焼き始めていた。
ワークマンの店員に選んでもらった長袖Tシャツとストレッチパンツを身に纏い、新品の長靴を履いた佐藤は、意気揚々と車を走らせていた。スマホのマップアプリに、事前に聞いていた渡辺さんの畑の住所を入力してあった。
……はずだった。
「……目的地周辺です。案内を終了します」
無機質なナビの声が流れたのは、一面に田んぼと畑が広がる、見渡す限りの緑の中だった。アスファルトの道はいつの間にか途切れ、車一台がやっと通れるほどの細い砂利道になっている。周囲に建物もなければ、看板もない。スマホの画面を見ても、自機マークは青いグラフィックの「空白地帯」をぽつんと指しているだけだった。
「え……どこだここ……」
東京にいた頃なら、ARメガネが視界に矢印を浮かび上がらせ、1センチの誤差もなく目的地へ導いてくれた。しかし、自然のままの農道には、AIのナビすら対応していないのだ。
文明の利器に見放され、佐藤が車の中で途方に暮れていた、その時だった。
軽トラのブォンというエンジン音が近づいてきて、佐藤の車の横でピタリと止まった。助手席の窓が開き、麦わら帽子をかぶった小林さんが顔を出した。
「やっぱり迷ってたか! 佐藤くん!」
「小林さん!……あ、高橋さんも!」
運転席には、同じく作業着姿の高橋さんが乗っていた。
「ナビは役立たずだろ? この辺の畑の境界なんて、地元の人間しか分からんからね。ほら、ついておいで!」
高橋さんの軽トラの後ろをゆっくり追うこと数分。うねうねと曲がる農道の先に、一際青々と茂った畑と、そこで手を振る渡辺さん、そして主宰の鈴木の姿が見えた。
「おう! 遅かったな佐藤くん! ワークマンでバッチリ決めてきたじゃないか!」
渡辺さんが豪快に笑う。鈴木も「似合ってるよ、新人農夫!」と冷えたお茶のペットボトルを渡してくれた。
「よし、今日のミッションはこれだ」
渡辺さんが指さしたのは、トマトやナスの畝の周りにびっしりと生い茂った、しぶとい雑草の群れだった。
「機械を入れると作物の根っこを傷つけちゃうからな。ここからは全部『手作業』だ。腰を落として、根っこから引っこ抜く。簡単だろ?」
「はい!」
佐藤はワークマンの背抜き軍手をはめた。手にしっくりと馴染む。
膝をつき、初めて「本物の土」の上にかがみこんだ。
「……よし」
雑草の茎を掴み、力を込めて引っ張る。
ブチブチッ、と根が土を掴んで抵抗する感触が、軍手を通してダイレクトに掌へ伝わってきた。
「うっ……結構かたい……!」
「腰を使って、真上に引き抜くんだよ!」
渡辺さんのアドバイスに従い、ぐっと踏み込んで力を込めると、スコーン! と土の塊とともに雑草が抜けた。
「ぬ、抜けた……!」
「いいぞ佐藤くん! その調子だ!」
そこからは、無我夢中の時間だった。
ジリジリと照りつける太陽。背中を吹き抜ける夏気流。額からポタポタと落ちる汗が、カチカチに乾いた土にしみ込んでいく。
指先はすぐに泥だらけになり、ワークマンの作業着も一瞬で土汚れがついた。けれど、店員が言っていた通り「汚れても平気」な服だからこそ、佐藤は思い切り土に手を突っ込むことができた。
1時間、2時間——。
自分が抜き取った場所から雑草が消え、きれいな黒土と、青々と実ったトマトの姿がはっきりと露わになっていく。
「目に見える」のだ。自分の汗と、手作業の成果が。
「よし、そろそろ休憩にしよう!」
渡辺さんの声で、佐藤はゆっくりと腰を伸ばした。バキバキと体に心地よい痛みが走る。振り返ると、そこには自分たちが手で綺麗にした、美しい畑の風景が広がっていた。
「うわぁ……」
「ハハハ、壮観だろ?」
渡辺さんが、傍らのバケツから氷水でキンキンに冷やしたキュウリとトマトを取り出し、ドスンと佐藤の手の上に載せた。泥のついた、不揃いで力強い夏野菜。
「ほら、食ってみろ。今日のお前の『成果』だ」
佐藤は味噌を少しつけ、キュウリにかぶりついた。
ボリッ!!
静かな畑に、信じられないほど鮮烈な音が響いた。
みずみずしい水分と、野菜本来の濃い青くささが口いっぱいに広がる。
「……っ! うま……うまいです、渡辺さん……!」
「だろ? AIが温度管理したハウスのトマトも美味いかもしれんが、自分たちで汗かいて、雑草抜いて食う野菜は格別なんだよ」
おじさんたちも並んで座り、キュウリやトマトをボリボリと齧っている。
みんな、泥だらけの顔で、子どものように笑っていた。
東京で画面の数値を眺めていた頃には、絶対に味わえなかった圧倒的な「手応え」と「生きてる感覚」。
佐藤は泥のついた軍手で汗を拭い、空を見上げた。東北の夏の空は、どこまでも高く、青かった。




