最高の酒の肴と、プライスレスな夜
「これ、持って帰りな!」
作業が終わり、渡辺さんが軽トラの荷台から大きめの段ボール箱をどんと降ろした。
中には、採れたてのトマト、ナス、キュウリ、そしてパチパチとはじけそうな枝豆が山のように詰まっている。物価高や効率化で野菜の値段すら跳ね上がっているこの時代に、この量は正直嬉しさしかなかった。
「冷やすなら、冷蔵庫もいいが、実家の井戸水でやってみな。味が丸くなるぞ」
別れ際、渡辺さんがそう教えてくれた。
帰宅した佐藤は、さっそくワークマンの作業着を脱ぎ捨て、庭の片隅にある古い井戸のポンプをガチャガチャと動かした。
ひんやりとした透明な水が勢いよくバケツに溜まっていく。そこに、もらったばかりのキュウリとトマトを沈めた。
物理的に考えれば、現代の最先端冷蔵庫の温度管理と変わらないか、あるいはそれ以下かもしれない。けれど、太陽の下で汗を流した体には、井戸から汲み上げたばかりの爽やかな水に揺れる野菜の姿そのものが、何よりのごちそうに見えた。
(よし……今日の酒の肴は、これで決まりだ)
胸の奥がウキウキと踊る。こんな気持ちで夜を待つのなんて、一体何年ぶりだろう。
あたたかい風呂に入り、一日中かいた汗と泥を綺麗に洗い流した。適度に疲れた筋肉が、湯船の中で心地よく痺れる。
風呂上がりに薄手の服に着替え、居間へ向かう。
テーブルの上には、井戸水でキンキンに冷やした野菜たち。そして小皿に盛られているのは、同居する親が昔ながらの手間暇をかけて仕込んでくれた、自家製の麹味噌だった。
カチッ、と缶ビールのプルトップを開ける。
グラスに注ぐ手間すら惜しく、そのまま口へ運ぶ。咽喉を鳴らして飲み干すビールが、五臓六腑にしみ渡る。
「……はぁぁ……っ」
思わず声が出た。
そして、井戸水から引き揚げたキュウリに、自家製味噌をたっぷりとつけてかぶりついた。
ポリッ、という心地よい音とともに、瑞々しい野菜の甘みと、麹のまろやかで深い旨味が口いっぱいに弾けた。
(……うまい……)
AIが弾き出す「一人あたりの平均栄養素」にも、「市場の適正価格」にも、この感動は絶対に数値化できない。
市場で買えばキュウリ数本でいくら、味噌一パックでいくら、という金額はつくだろう。だが、渡辺さんが汗を流して育て、おじさんたちと泥だらけになって収穫し、親が時間をかけて醸したこの一皿の価値は、どんな金を積んでも買えない。
東京にいた頃、自分は「完璧で無駄のない生活」を買っていたつもりだった。
けれど、本当に欲しかった安住は、この「不便で、手間がかかって、お金には換算できない時間」の中にあったのだ。
「……さてと。月曜日からは、帳簿付けだな」
佐藤は小さく呟き、満足そうに目を細めた。
手元には、まっすぐ締められるようになったネジ。
自分の力で引っこ抜いた雑草の記憶。
そして、月曜日から始まる「自分の手で確かめる仕事」。
逃げてきた男が手に入れたのは、どんな最新テクノロジーよりも確かで、愛おしい日常だった。
夜風が網戸を揺らし、虫の声が静かに部屋を満たしていく。
佐藤はもう一度ビールを煽り、プライスレスな幸せに包まれながら、静かにグラスを置いた。




