電卓の音と、泥臭い初仕事
月曜日。佐藤の新しい職場である「山口製作所」での初日が始まった。
事務室は、油の匂いと古い紙の匂いが混ざり合った、どこか落ち着く空間だった。デスクの上に置かれているのは、最新のAI端末でもARモニターでもない。使い込まれた大きな電卓と、分厚い紙の総勘定元帳、そして黒と赤のボールペンだけだった。
「佐藤くん、うちはね、売上も仕入れも全部この伝票から手で拾って、元帳に転記していくんだ」
社長がニコニコしながら、少し黄色く変色した伝票の束をどんと置いた。
「AIのソフトを使えば一瞬だって息子には言われるんだがね……うちの職人たちが汗流して削った部品の売り上げだ。一枚一枚、自分の目で見て、手で電卓叩いて『よし』って確認したいんだよ」
「……分かります」
佐藤は大きく頷いた。
東京時代、AIが自動生成するデータをスワイプして「承認」ボタンを押すだけだったあの仕事とは、根本から違う。
佐藤は息を整え、ボールペンを握った。
カチャ、カチャ、カチャ——。
電卓のキーを叩く音が、静かな事務所に響く。
最初は指先がぎこちなく、電卓のブラインドタッチすら怪しかった。だが、数字を一つずつ拾い、仕訳を書き込み、電卓の合計と元帳の数字がぴたりと一致した瞬間——。
(あ……気持ちいい)
胸の奥がすっと軽くなるような感覚があった。
数字という目に見えないものが、自分の手を経由することで、確かな「記録」として紙の上に残っていく。
「どうだ、佐藤くん? 合ったかい?」
「はい、社長! 誤差ゼロです」
「おおう、流石だね! さすが元・大手事務!」
社長が嬉しそうに肩を叩いてくれた。自分の手が、確かにこの小さな工場を支える歯車の一部になっている。不器用な自分でも、丁寧にやればちゃんと「手仕事」ができるのだという実感が、じわじわと湧いてきた。




