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僕が逃げた利器と得た安住  作者: 藤一


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糸と針、一針の重み

その週の「喫茶マニュアルテック同好会」の活動場所は、呉服屋だった小林さんの自宅兼工房だった。

畳の敷かれた静かな部屋には、色とりどりの古い着物や、解かれた美しい布地が綺麗に重ねられていた。ほのかに樟脳(しょうのう)と古い布の匂いが漂っている。

「今日はね、着なくなった古着の着物から、小さな巾着袋(きんちゃくぶくろ)を作ってみよう」

小林さんが、ハサミと針、そして糸を出してきた。

「えっ……僕、裁縫なんて小中学校の家庭科以来です。絶対に無理ですよ、不器用ですし……」

佐藤が思わず引き返そうとすると、メンバーたちが口々に声をかけた。

「大丈夫だって佐藤くん! 俺なんて先週、針で指刺して大騒ぎしたんだから!」(鈴木)

「焦らずゆっくりでいいんですよ。布は逃げませんから」(高橋)

「畑の雑草抜きよりは腰に来なくて楽だぞ」(渡辺)

小林さんは優しく微笑みながら、佐藤に裁ちバサミを持たせた。

「いいですか、佐藤さん。布を切るときは、ハサミを動かすんじゃないんです。布の方をハサミに寄り添わせるように動かすんですよ」

「布を……寄り添わせる……?」

佐藤はおそるおそる、ハサミの刃を古い朱色の絹布に入れた。

チョキ、チョキ……と、心地よい音が静かな部屋に響く。

「そう、上手いです。次は針に糸を通しましょう」

これが最大の難関だった。細い針の穴に、頼りない糸の先を通す。

AIの自動縫製マシンならコンマゼロ一秒で終わる作業に、佐藤は額に汗を浮かべながら集中した。息を止め、集中すること三分。

ピシッ、と糸が針穴を抜けた。

「通った……!」

「おおっ! 通った!」おじさんたちから歓声が上がる。

「じゃあ、この線の通りに『波縫い』をしていきましょう。曲がってもいいんです。手縫いの味ですから」

小林さんに教わりながら、一針、一針、針を刺しては抜いていく。

指先を滑らせ、糸を手前に引く。

カチカチとしたデジタル世界にはない、「布の柔らかさ」と「糸の張り」が、ダイレクトに指に伝わってくる。

「……小林さん。呉服屋さんを閉めるとき、辛くなかったですか?」

縫い進めながら、佐藤は気になっていたことを尋ねた。

小林さんは手元を休めず、穏やかな声で答えた。

「そりゃあ、寂しかったですよ。でもね、着物を着る人が減ったのも、ファストファッションが増えたのも時代の流れです。それに逆らうつもりはありません。……ただね」

小林さんは、佐藤の手元を愛おしそうに見つめた。

「こうやって一枚の布に向き合って、手で縫っていく時間の愛おしさだけは、時代が変わっても絶対に消えないと思うんです。効率だけを求めていたら忘れてしまうような、小さな丁寧さ。それを誰かに伝えられたら、私はそれで十分幸せなんですよ」

一針、一針。

佐藤が縫った不揃いな赤い糸のラインが、布の上に残っていく。

歪んでいるし、決して売り物にはならない。けれど、自分が心を込めて手で縫ったという事実が、愛おしくてたまらなかった。

「……できた」

三十分かけて、ちいさな巾着袋が完成した。

「素晴らしい! 初めてにしては上出来ですよ、佐藤さん!」

小林さんが自分のことのように目を細めて褒めてくれた。

「よし! 次はこの巾着袋に、渡辺さんの畑で採れた枝豆を入れて持ち帰る『マニュアルテック巾着』の完成だな!」

鈴木が相変わらずのセンスで叫び、部屋中に温かい笑い声が広がった。

仕事場での「帳簿の手仕事」と、サークルでの「針と布の手仕事」。

佐藤の東北での生活は、ますます深みを増していきます!

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