画面の向こうの冷たさと、泥臭い手帳
居酒屋からの帰り道、久しぶりに味わった温かい余韻に浸りながらも、ふと現実に引き戻される瞬間があった。
実家に帰り、一人布団に入ると、どうしても頭の片隅を掠めるものがある。「これからどう生きていくか」という現実だ。
ありがたいことに、東京でがむしゃらに働いていた頃の貯蓄はそこそこある。今すぐ生活に困るわけではない。だが、根が真面目な仕事人間である佐藤は、何もしていない自分にどこか焦りを感じてしまい、気づけばスマホで求人サイトを開いていた。
画面に並ぶのは、見慣れた、そして息が詰まるような募集要項ばかりだ。
『AIオペレーション管理スタッフ』
『プロンプト最適化ディレクター』
『自動化ロボット監視業務』
どこを見ても「AIと働く」「ロボットを管理する」の文字ばかり。
画面をスクロールする指が重くなる。冷や汗が背中を伝った。東京で心をすり減らしたあの「カチカチした世界」が、この東北の地にも、静かに、けれど確実に侵食してきているのを感じる。
(やっぱり、時代はそっちなんだよな……)
諦めかけたその時、検索条件の「条件絞り込み」で「AI導入」のチェックを外し、一番泥臭いキーワードで再検索をかけてみた。
そこに、ぽつんとひとつだけ、異質な求人が残っていた。
『有限会社 山口製作所:事務員募集(簿記資格必須)』
詳細を見ると、小さな町工場の事務仕事だった。条件欄には「パソコンの基本操作、日商簿記2級以上。AIツール不要」と書かれている。
(……簿記か)
佐藤は昔、なんとなく取得していた資格のことを思い出した。AIが自動で決算まで終わらせてくれる現代において、わざわざ人間が仕訳を切る仕事なんて絶滅したと思っていた。けれど、その「アナログな紙と数字の作業」という言葉に、猛烈な安心感を覚えた。
佐藤は迷わず応募のボタンを押した。
数日後。佐藤は少しサイズが合わなくなったスーツを着て、町外れの小さな工場の事務所を訪れていた。
金属を削る重低音と、オイルの甘い匂いが漂うプレハブの事務所で待っていたのは、作業着姿の年配の社長だった。
「いやあ、佐藤さん。東京の大手で事務やってた人が、なんでうちみたいな小さな工場に来てくれたの?」
社長は不揃いな書類の山から名刺を取り出しながら、不思議そうに尋ねた。
佐藤は一瞬言葉に詰まったが、正直に答えることにした。
「……東京の、完璧すぎるシステムに疲れてしまいまして。AIに管理されるような仕事ではなく、自分の手で計算して、確かめられるような仕事をしたいと思ったんです」
すると社長は、拍子抜けするくらい深く「うーむ」と頷いた。
「わかるよ。うちの息子なんかも『おやじ、早くAIのクラウド会計入れろよ』ってうるさいんだけどね。……なんていうか、ほら。画面の中で勝手に数字が動いてても、実体がないじゃない? あれ、なんか気持ち悪いんだよなぁ。ちゃんと帳簿にペンで書いて、電卓叩いて『よし、合ってる』って感覚がないと、商売やってる気がしなくてさ」
「……実体、ですか」
「そう。手触りっていうのかな」
社長のその言葉は、まさに佐藤が「喫茶マニュアルテック同好会」で感じていたことそのものだった。
AIの便利さは理解できるし、時代がそっちへ向かっているのも分かる。けれど、人間には「手触り」や「実体」が必要なのだ。
提示された給料は、東京のIT事務時代の半分近くまで下がっていた。
けれど、東北の田舎で暮らしていくには十分すぎる額だ。何より、ここには「自分の手で確かめられる仕事」がある。
佐藤は社長の目をまっすぐ見つめて言った。
「社長。僕、手先はすごく不器用なんです。でも、数字をひとつひとつ丁寧に確認して、まっすぐに帳簿をつけることならできます。ぜひ、ここで働かせてください」
社長は一瞬驚いたように目を見開き、それから破顔した。
「ハハハ! いいねぇ、まっすぐ帳簿をつける! 採用だ採用! 明日から来てくれるかい?」
「はい! よろしくお願いします!」
事務所を出ると、東北の爽やかな風が佐藤の頬を撫でた。
ポケットの中でスマホが静かに震えていたが、佐藤はそれを見ようともせず、大きく深呼吸をした。
逃げてきた場所で、新しい手仕事と、安住の居場所が、少しずつ繋がり始めていた。




