手巻きの音と、ちょっと面倒なおじさん
指定されたのは、駅前のシャッター街の片隅にある、昭和の残り香が漂う古い純喫茶だった。
ガラガラと引き戸を開けると、カウベルが素朴な音を立てた。
店内にはカツカレーの匂いがうっすらと満ちており、奥のテーブル席に一人の男が座っていた。
年齢は五十代半ばといったところだろうか。使い古されたポロシャツの襟を少し立て、真剣な目つきで手元の「何か」をガチャガチャといじっている。
「あの……『喫茶マニュアルテック同好会』の、佐藤ですが」
佐藤が声をかけると、男はガバッと顔を上げた。
「おお! 佐藤くん! 来てくれたか!」
満面の笑みで立ち上がったその男は、実にどこにでもいそうなおじさんだった。特別なオーラがあるわけでもなく、かといって偏屈そうでもない。どこかの会社の営業課長をそのまま定年退職させたような、親しみやすくも少し野暮ったい風貌だ。
「主催の鈴木です。いやあ、若い(と言っても佐藤は三十代半ばだが)仲間が入ってくれて嬉しいよ。ささ、座って!」
鈴木と名乗った男は、テーブルの上にあった「それ」を誇らしげに指さした。
それは、プラスチック製のちいさな手動式コーヒーミルだった。
「これね、フリマアプリで買ったんだよ。最新のAIエスプレッソマシンなんて何万もするだろ? でもね、こうやって自分の手で回す。これが『マニュアルテック』の真髄よ」
そう言って鈴木はハンドルをグルグルと回し始めた。ゴリゴリ、ゴリゴリと不揃いな音が店内に響く。
佐藤は恐る恐る尋ねた。
「あの……おじさ……鈴木さんは、AIとかはお嫌いなんですか?」
すると鈴木は、ハンドルを回す手をピタリと止めて、少し複雑な表情を浮かべた。
「嫌い? いやいや、そんなことないよ! 便利だと思うよ、AI。ニュースで見るとすごいなぁって感心するしね。ほら、スマホの音声検索だって『今日の天気』くらいは俺だって聞くよ」
鈴木は胸を張ってみせたが、すぐに困ったように頭を掻いた。
「たださ……あのイヤホンで喋ったら勝手に言葉を変えられたり、目線だけで買い物ができたりするのは、正直よく分からんのだよ。ついていけんというか……何をそんなに急いでるんだ? って思うわけ。昭和や平成をこうやって生きてきた身としてはさ」
そう言いながらも、鈴木の目にはかすかな対抗心が宿っていた。
「でもさ、今の若い奴らに『これだからオジサンは』ってバカにされるのはシャクじゃない? だから俺たちだって『最新のスタイル』を楽しんでるんだぞ、って見せつけたくてね。それでこの名前よ。『マニュアル(手動)』の『テック(技術)』! どうだ、ナウいだろ?」
ドヤ顔で言い放つ鈴木を見て、佐藤は思わず毒気を抜かれた。
ハイテクを拒絶しているわけでも、昔は良かったと嘆いているわけでもない。ただ、ついていけない自分を受け入れつつも、どこかで若者に負けたくないというちっぽけなプライドを持ち続けている。
「……あの、鈴木さん。僕、手先がすごく不器用で。AIがないとカップ麺のお湯すらまともに作れない人間なんですけど……大丈夫でしょうか」
佐藤が恥ずかしそうに明かすと、鈴木は一瞬ポカンとした後、腹を抱えて大笑いした。
「ハハハ! いいねぇ! 最高だよ佐藤くん! 機械がなきゃ何もできないなんて、まさに現代っ子じゃないか。よし、じゃあ今日の『活動』は決定だ。佐藤くん、このコーヒーミルのハンドルを回してみなさい」
「え、僕がですか?」
「そう! 自分の力で豆を粉にするんだ。AIも自動化も関係ない。ただ腕の力でゴリゴリやる。これが『マニュアルテック』の第一歩だ!」
差し出された無骨なハンドルを、佐藤はおそるおそる握りしめた。
ひんやりとしたプラスチックの感触が、掌に直接伝わってくる。
「……いきますよ」
「おう、やってみろ!」
ゴリッ、と重い手ごたえが腕に伝わった。
カチカチとしたスマートな世界から逃げてきた男が、初めて「自分の手で何かを動かした」瞬間だった。
ゴリッ、ゴリゴリッ——。
掌に伝わる重い抵抗感と、ガタガタと不揃いに振動するプラスチックの感触。
腕の筋肉がじわじわと張り、背中にうっすらと汗が滲んでくる。スマートマンションの冷房の中で指一本動かさずに暮らしていた佐藤にとって、それは「疲れる」というごく当たり前の身体感覚だった。
「どうだ、佐藤くん。案外重いだろ?」
「はい……結構、力が要りますね……」
息を荒らしながら必死にハンドルを回し続ける。
やがて、手の応えがふっと軽くなった。
「よし、回し切ったな。下のケースを見てごらん」
佐藤は指示通り、ミルの下部にある透明なプラスチックケースを外した。
そこには、粗かったり細かかったりと粒の揃っていない、不均一な茶色の粉がたまっていた。お世辞にもAIブレンドのような美しい挽き目とは言えない。不格好で、どこか泥臭い粉だ。
けれど——目に見える。自分の腕の力で、確かに形を変えた豆がそこにある。
(僕が、これを削ったんだ)
液晶画面上の数値をタップして「完了」のチェックマークを出すのとは、まったく違う確かな手応えが、胸の奥をじんと温かくした。
「よし、じゃあマスターにお湯をもらって、淹れてみるか」
鈴木がマスターから借りてきた古いドリップポットで、ゆっくりとお湯を注ぐ。
不器用な手つきでお湯を落とすと、不揃いな粉がぶくぶくと膨らみ、香ばしい湯気が立ち上った。
出来上がったコーヒーを、ふたりは古びたカップに注いで口に含んだ。
「……ん」
「……うむ」
顔を見合わせる。
正直に言えば、決して「絶品」ではなかった。
AIがコンマ一秒単位で温度と抽出時間を管理した完璧なコーヒーに比べれば、少し酸味が強く、後味にエグみすらある。
だが——めちゃくちゃ美味かった。
「……うまいですね、鈴木さん」
「おう。やっぱり『マニュアルテック』は違うな。深みが違うよ、深みが」
鈴木は誇らしげに鼻を鳴らした。
お互いに「味のクオリティとしてはAIに負けている」ということには気づいている。口に出したら負けのような気がして、どちらもそれは言わない。
けれど、自分の手で豆を挽き、目に見える形になって、それを口に運ぶという一連の「まどろっこしいプロセス」が、こんなにも心を落ち着かせてくれる。言葉にしなくても、二人の間に流れる空気だけで、その答えは共有されていた。
「佐藤くん。次は何の手作業をやろうか」
「そうですね……なんでもいいです。僕、ネジの回し方とかも習いたいです」
「いいぞ! 次回は『ドライバーで家具のネジを締める会』だ!」
どこまでもダサく、無駄で、愛おしい時間が流れていく。
東京で追いつめられていた佐藤の心から、カチカチとした刺すような冷たさが、ゆっくりと消えていくようだった。




