カチカチした世界
素直に願望を書いてしまった。
もし、共感する方がいたら一緒お話の中だけでも、逃げましょう。。。
視界の右上に、淡いブルーのデジタル数値が浮かんでいる。
『心拍数 78。ストレス指数 42。佐藤様、本日のタスク消化率は94%です。大変順調です』
耳の奥に埋め込まれた極小のウェアラブルイヤホンから、AIアシスタントの凪いだ声が聞こえる。
佐藤はオフィスビルを出て、夕暮れの街を歩いた。
通りを行き交う人々は、みな透明なARメガネをかけ、誰ひとりとして前を見ていない。視線の動きだけでECサイトの買い物を済ませ、通り過ぎるレストランの看板を見つめては、AIが提示する「今日のあなたに最適な栄養素とメニュー」のポップアップを網膜上でタップしている。
街は静かだった。
人間同士の会話は、イヤホンのリアルタイム翻訳と音声補正によってすべて「不快感のない最適なトーン」に変換される。怒鳴り声も、過度な謙遜も存在しない。
交差点の向かいにあるAIレストランでは、ロボットアームが無駄のない軌道で調理を行い、配膳ロボットが1ミリの狂いもなく料理を運んでいた。
完璧で、静かで、カチカチと狂いなく噛み合った歯車のような世界。
佐藤の仕事は、都内の大手企業での事務職だった。といっても、文字通り「事務」をするわけではない。AIが算出した莫大な書類やデータを画面上でスワイプし、エラーが出ていないかを「目視で承認」するだけの作業だ。
手を動かす必要すらない。視線を動かすだけで仕事が終わる。
「……はぁ」
溜息をついた瞬間、イヤホンが小さく鳴った。
『佐藤様、深呼吸を感知しました。自律神経の乱れを補正するため、最適なアロマディフューザーを注文しますか? 視線を3秒固定してください』
「……いい、拒否」
佐藤は目を閉じ、ARメガネを外した。
途端に、世界からすべての情報が消え、ただぼやけた夕闇だけが残った。
自分は何をしているのだろう。
手先はどんどん不器用になり、最近ではペットボトルのフタを開けることすら億劫になっていた。包丁の握り方も知らない。ドライバーの回し方も知らない。もし今、この街の電源がすべて落ちたら、自分はお湯の沸かし方すら分からずに死ぬのではないか。
利器に囲まれ、最適化され尽くした日常。
そこに、自分の居場所(安住)はどこにもなかった。
限界だった。佐藤は翌日、休職届を提出し、逃げるように東京を去った。




