第四章 出発、あるいは忘れ物と永遠の話
朝、エリィは荷物を三回詰め直した。
一回目は、神学書を二冊入れてから、重すぎることに気づいた。
二回目は、神学書を一冊に減らしたが、今度は着替えを入れ忘れていた。
三回目は、着替えを入れたら神学書が入らなくなったので、神学書を諦めた。それから五分後、「でも第七章の境界論は持っておかないと」と思い直して、着替えを一枚減らして神学書を戻した。
「エリィ」マリアが扉のところから言った。「もう出発の時間だよ」
「わかってる」
「三回目の詰め直しも終わったの?」
「四回目をしてる」
マリアは額に手を当てた。
結局、荷物には神学書一冊・着替え二枚・水筒・乾パン・空の瓶(「何かに使えるかもしれないから」)が入った。金属板三枚は服の内側のポケットに入れた。財布を入れ忘れたことに気づいたのは、聖堂の門を出てからだった。
「あ」
「何?」マリアが聞いた。
「財布」
「……今から取ってくる?」
「ヴェルト師が持つって言ってたから大丈夫だと思う」
「確認した?」
「……してない」
マリアは振り返って聖堂の方を見た。エリィも見た。門番が手を振っていた。もう閉まりかけていた。
「まあ」とエリィは言った。「なんとかなるかな」
「なんとかなるかなって言いながら、いつもなんとかなってるから困る」マリアが言った。
門の前で、見送りが始まった。
マリアだけでなく、ガスもルクスも、他の見習いたちも何人か出てきていた。ヴェルト師はすでに外で待っていて、荷物をひとつ持って、空を眺めていた。晴れていた。山脈の方だけ、少し雲があった。
「エリィ」ガスが言った。「本当に行くの? 山まで」
「まだ山まで行くとは決まってないけど」
「でも方向はそっちでしょ」
「そっちではある」
ガスは少し黙った。「怖くない?」
「怖い」エリィは正直に言った。「でも、行かないと気になって眠れない気がする」
「それで行くの?」
「他に理由があった方がいい?」
ガスはまた黙った。それから「いや、いい理由だと思う」と言った。
ルクスが手を差し出してきた。握手だった。エリィは握り返した。少し強く握られた。
「気をつけて」ルクスが言った。
「うん」
「本当に気をつけて」
「うん」
「戻ってきたら、バナナがおやつかどうかの話、続けよう」
「金林檎だけど」エリィは言った。「でも、うん」
マリアが最後だった。
他の子たちが少し離れて、マリアとエリィだけになった。
マリアは何も言わなかった。何か言おうとして、やめた。また言おうとして、やめた。
エリィは待った。
マリアの目が、少し赤くなっていた。
「……なんか」マリアがようやく言った。「行かないでって言えないのが腹立つ」
「なんで」
「だって行く理由がエリィらしすぎて。止める理由がない」
エリィは少し考えた。「止めていいよ」
「止めない」
「止めたければ」
「止めない」マリアがきっぱり言った。「でも腹立つ」
「ごめん」
「謝らないでよ余計腹立つ」
エリィはどうしたらいいかわからなくなって、とりあえずマリアの肩を叩いた。二回。
「痛い」
「ごめん」
「力加減おかしいんだよエリィは」
「ごめん」
マリアがふっと笑った。泣きそうな顔のまま笑った。「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
エリィは振り返って歩き始めた。三歩目で、石畳の段差につまずいた。転ばなかったが、あわや、という体勢になった。
「大丈夫?!」マリアが声を上げた。
「大丈夫」エリィは立て直しながら言った。「段差があった」
「そこに段差があるの、三年間知ってたでしょ」
「……知ってた」
「エリィ!」
「うん」
「絶対帰ってきなさいよ」
エリィは振り返らずに手を上げた。ちゃんと伝わったかどうかわからなかったが、それ以上振り返ると、自分も泣きそうな気がしたので、前だけ見て歩いた。
ヴェルト師が隣に並んだ。
「財布、持っておるか」
「……師が持つと思っていました」
老人はため息をついた。財布を一つ、エリィに渡した。「これを遣え。後で返せ」
「ありがとうございます」
「まったく」
二人は街道を歩き始めた。
街を出ると、道は白くなった。
雪が積もった街道を、足跡をつけながら進む。空は青い。風は冷たいが、日差しがあるので体は温まった。ヴェルト師は杖もつかず、背筋を伸ばして歩いた。エリィの方が時々遅れた。荷物が重かった。
「師」
「うん」
「財布、中にいくら入ってますか」
「数えておらん」
「少ないですか」
「多くはない」
「足りますか」
「行き先による」
エリィは荷物の重さを肩で感じながら、それ以上聞くのをやめた。
しばらく歩いて、山脈が見えてくるあたりで、ヴェルト師が口を開いた。
「エリィ」
「はい」
「山の話を、知っているか」
「大聖堂で聞きました。到達した者に宝が与えられると」
「それだけか」
「それだけです」
老人は前を見たまま歩いた。
「歴史の中で、あの山へ向かった者は少なくない」
「はい」
「王がいた。国の飢饉を救うため、山の金を求めた」
「得られましたか」
「得た」
エリィは少し驚いた。「では国は救われたんですか」
「救われた。その王の代は」
「……その代は、とは」
「次の代の者が、その金を奪い合って戦争を起こした」
エリィは黙った。
「医師がいた」ヴェルト師は続けた。「全ての病を癒す力を求めた」
「それも得られたんですか」
「得た」
「では」
「その医師は千年生きた。己が癒した者たちが、全員死んでいくのを見届けながら」
エリィはしばらく何も言わなかった。街道の雪を踏む音だけが続いた。
「師」
「うん」
「その人たちは、欲しいものを手に入れたのに」
「うん」
「欲しかったものが、欲しかった理由を壊した、ということですか」
ヴェルト師は少し間を置いた。「どういう意味だ」
「金が欲しかったのは、国の人を助けたかったから。でも金そのものには、それを助ける力がなかった。金は手段で、目的じゃなかったのに、金を手に入れた時点で目的になってしまった」
「ほう」
「病を癒す力が欲しかったのは……なんでだろう。苦しんでいる人を見たくなかったから? でも力を持ったら、苦しむ人を全員癒しながら、自分だけが死ねなくなった。それって、一番苦しんでいるのが自分になってしまった、ということですか」
エリィは歩きながら考え続けた。
「つまり、山が与えるのは欲しいものではなくて」
「なんだ」
「欲しいと思った瞬間の、自分を固定するもの、なのかな」
ヴェルト師は黙った。
エリィは空を見上げた。青い空だった。雲が少し動いていた。
「欲しいと思った瞬間の自分に、ずっとなり続けるんだとしたら」エリィはゆっくり言った。「それって、結構怖いですね。人って、欲しいものが変わるので」
「……そうだな」
「昨日、金林檎が欲しかったけど、今日はもう別に」エリィはそこで一度止まった。「あ、でも今はちょっと欲しいかもしれない。朝からあまり食べてないので」
ヴェルト師が初めて、声を出して笑った。
小さな笑いだったが、確かに笑った。エリィはそれに少し驚いた。師が笑うのを、あまり見たことがなかった。
「師、笑うんですね」
「失礼な」
「いえ、なんか、よかったです」
老人はすぐに真顔に戻ったが、口元がまだ少し緩んでいた。
「エリィ」
「はい」
「その金属板、持っているな」
エリィは服の内側を押さえた。「はい」
「使い方は教えない」
「……はい」
「使う時がきたら、わかる」
「本当ですか」
「わかる者には、わかる」
エリィはその言葉の意味を考えようとして、途中で腹が鳴った。
大きく、はっきり、鳴った。
「……すみません」
「朝、何を食べた」
「乾パンを半分」
「それだけか」
「詰め直しに時間がかかって」
老人はため息をついた。荷物の中から何かを取り出してエリィに渡した。包まれた何かだった。開けると、干し肉と固いパンだった。
「食べながら歩け」
「ありがとうございます」エリィは受け取って、すぐに食べ始めた。「師、準備がいいですね」
「おまえが準備を忘れることは、わかっておった」
「なんで」
「三年間、見ておった」
エリィはそれを聞きながらパンをかじった。固かった。でもおいしかった。
山脈が、また少し大きくなっていた。
雲が動いて、山の一部が光った。雪が白く、強く、光を返した。
「師」エリィはパンを持ったまま言った。「一つ聞いていいですか」
「うん」
「師は、山で何を得たんですか」
老人は答えなかった。
数歩分の沈黙があった。
「聞いてはいけませんでしたか」
「いや」
また沈黙。
それからヴェルト師は静かに言った。
「続きは、山が近くなったら話す」
「はい」
「今は、食え」
「はい」
エリィはまたパンをかじった。
風が吹いた。
金属の音が、した。
今日は遠くなかった。山の方角から、はっきりと。金貨が石畳に落ちるような音が、三回。
エリィは立ち止まらなかった。
ただ、耳を澄ませながら、歩き続けた。
パンは固かったが、歩きながら食べるとなぜかおいしかった。
それがなぜかは、考えても答えが出なかったので、考えるのをやめた。
夕方、宿に入る前に、エリィは自分の外套の裾が内側に折れていたことに気づいた。朝からずっと、そのままだったらしかった。
マリアがいたら、絶対に出発前に指摘してくれていた。
そう思ったら少しだけ、さっき感じた「泣きそう」が戻ってきた。
でもそれは一瞬で、宿の扉を開けたら温かい空気が出てきて、腹が鳴ったので、エリィはそっちの方が気になった。
「師、夕食はありますか」
「ある」
「よかった」
それで十分だった。




