第三章 火の使い方、あるいは止まる理由
帰り道は、来た道より長く感じた。
体が疲れているせいかもしれない。あるいは大聖堂で見たものが多すぎて、頭が重くなっているせいかもしれない。馬車の中は行きの半分も喋らず、誰かが揺れに合わせてうとうとし始めると、それが伝染するように隣も目を閉じた。
エリィは眠れなかった。
窓の外が気になった。正確には、窓の外の山が。
雪をかぶった山脈がずっと右手に見えていた。遠い。でも視界から消えない。街道が曲がるたびに、また違う角度で同じ山が現れる。まるで追ってきているようだった。
業を返す。
礼拝室の女性の言葉が、また頭の中で動いた。
業を返す。願いを聞いて、返す。返されたものを、受け取った人間は背負う。
あの人も、何かを背負っているのだろうか。
「エリィ、また眉が寄ってる」
半分眠りかけていたはずのマリアが、目を閉じたまま言った。
「……起きてたの」
「半分ね。エリィが考えてると、なんか伝わってくる気がする」
「感じが」
「うん。空気が変わる」
エリィは少し考えた。「どんなふうに?」
「静かになる」マリアはそのまま目を開けずに言う。「エリィがいつも静かなのは変わらないんだけど、考えてるときはもっと静かになる。水が深くなった感じ、というか」
エリィは自分の手を見た。膝の上に置いた手。普通の手だった。
「マリアは」とエリィは言った。「何かを本当にやりたいと思ったことある?」
「何かって?」
「うまく言えないんだけど。これをやらないと、みたいな。理由を考えるより先に、体が動く感じ」
マリアはしばらく黙った。それから、「ある」と言った。
「どんなとき?」
「猫が雨に濡れてるとき。傘を持ってても持ってなくても、気づいたら走ってた」
エリィはそれを聞いて、何かが少し、腑に落ちた。
「それだ」と、エリィは静かに言った。
「何が?」
「私がわからなかったこと。理由じゃなくて、走ること」
マリアは片目を開けてエリィを見た。それからまた閉じた。
「なんか難しいこと言ってる」
「そうかな」
「そうだよ。おやすみ」
マリアは本格的に眠ってしまった。エリィはまた窓の外を見た。
山が、まだそこにあった。
村に差し掛かったのは、夕方前だった。
街道沿いの小さな村で、石造りの家が十数軒並んでいるだけの場所だった。馬車はそこで一度止まった。御者が馬に水を飲ませるためで、見習いたちは少し外に出ていいと言われた。
村は静かだった。
行きに通ったときより、静かな気がした。
人が少ない。犬も鳴いていない。煙突から煙が出ているのは二、三軒だけで、あとは窓が閉まっていた。
「寒いから皆んな家にいるのかな」ガスが言った。
「そうだろうね」ルクスが答えた。
見習いたちはそれ以上気にせず、馬車の周りで伸びをしたり、雪を踏みしめたりしていた。
エリィだけが、少し村の方へ歩いた。
石塀の角を曲がったところに、子供がいた。
七歳か八歳くらいの男の子で、石塀にもたれて座っていた。外套もなく、薄い上着一枚で、両手を膝に挟んでいた。鼻が赤い。唇が少し白い。エリィが近づいても顔を上げなかった。
「寒くない?」
男の子は顔を上げた。目が赤かった。泣いていたのか、ただ寒さで充血しているのかわからなかった。
何も言わなかった。
エリィは男の子の前にしゃがんだ。
荷物を開けた。
手を入れて、何があるか確認した。金林檎が一本残っていた。乾いたパンが半分。出発前に包んできた豆のスープの瓶は、もう空だった。
それから、エリィは考えた。考えるというより、頭の中で一瞬整理した。寒い。腹が空いている、たぶん。屋根の下に入れてやることはできない。でも。
「少し待ってて」
エリィは手袋を外した。右手の平を上に向けて、息を整えた。
《ファイア》。
小さな火が生まれた。指先の上で揺れる、鬼火くらいの炎。戦えない。物を燃やすには弱すぎる。でも手を温めるには十分だった。
男の子の手を、その炎の上に近づけた。
「触らないで。でも、近くに手を出してみて」
男の子はためらいながら、両手を炎の近くに出した。
温かい、とでも言いたそうな顔が少しだけほぐれた。
エリィはその間に荷物から金林檎を取り出した。最後の一本だった。磨かれたように艶のある、腐らない金林檎。
「食べる?」
男の子はエリィを見た。それから金林檎を見た。また小さく頷いた。
エリィは金林檎を渡した。炎をもう少し大きくした。使いすぎると腹が減るのはわかっていたが、もう少しだけ、と思った。
男の子が金林檎を食べ始めた。
甘い匂いがした。エリィの腹が、静かに鳴った。
「家は?」
男の子は口を動かしながら、村の奥の方を顎で示した。
「お父さんかお母さんは?」
少し間があった。
「父さんが、具合悪い」
「ずっと?」
「冬になってから」
エリィは頷いた。それ以上は聞かなかった。聞いても、今すぐできることが増えるわけじゃない。
炎を少し長く続けた。男の子が金林檎を食べ終わるまで。
それだけだった。
特別なことは何もなかった。ただ、それだけだった。
「エリィ」
馬車に戻ると、ヴェルト師が石塀にもたれて待っていた。眠っているのかと思ったが、目が開いていた。
「どこへ行っておった」
「少し村を」
「何があった」
「子供がいた。寒そうだったので、火を使いました」
ヴェルト師はエリィをしばらく見た。それから目を細めた。
「腹は減らなかったか」
「減りました」
「そうか」
老人は石塀から体を離して、馬車の方へ歩き始めた。エリィも並んで歩いた。
「師」
「うん?」
「あの火は、これくらいしか使えないんですが」
「知っておる」
「もっと大きくする方法はないんですか」
ヴェルト師は少し黙った。それから言った。
「大きくしたいのか」
「大きければ、もっと役に立てます」
「役に立てたい、のか」
「……子供の家まで温められたらと思いました。でも私の火では、遠すぎて」
老人は歩きながら、遠くを見ていた。
「エリィ」
「はい」
「おまえのファイア、いつも料理か洗濯に使っておるだろう」
「はい」
「なぜだ。聖典には、炎は魔物を退けるための術と書いてある」
エリィは少し考えた。「パンを焼く方が、先に必要なので」
老人はそれ以上何も言わなかった。
馬車が見えてきた。マリアが手を振っていた。御者が出発の合図をしていた。
ヴェルト師は馬車に乗り込む直前に、ひとこと言った。
エリィだけに聞こえる声で。
「大きくなるのは、術じゃない」
それだけ言って、老人は乗り込んだ。
エリィはしばらく馬車の外に立っていた。
大きくなるのは、術じゃない。
では、何が大きくなるのか。
「エリィ、早く!」ガスが顔を出した。「出発するよ!」
エリィは乗り込んだ。
座席に落ち着いたとき、ポケットを探った。
金林檎はもうなかった。
代わりに、ポケットの中が少し温かかった。炎の残熱か、それとも気のせいか、エリィには判断できなかった。
日が傾いて、街道が橙色に染まったころ、マリアが目を覚ました。
「あー……よく眠った。エリィ、顔色悪い、腹減った?」
「少し」
「ほら」マリアが袋から蜂蜜菓子を出した。「余ったやつ、まだある」
「ありがとう」
エリィはそれを受け取った。甘かった。思ったより甘くて、少し目に来た。泣くほどではなかったが、甘さが疲れた体に沁みた。
「ねえエリィ」
マリアが声を落として言った。
「今日、大聖堂で会った人、どんな感じだった? 変な人?」
「変というより……」エリィは言葉を選んだ。「いろんなものを、渡してしまった人みたいな感じ」
「渡した?」
「持っていたものを、どこかへ全部出してしまって、中が空になった……みたいな」
マリアはしばらく考えた。「悲しい感じ?」
「悲しいかどうか、わからなかった。悲しむものが残っているかどうかも、わからなかったから」
マリアは黙った。
それから静かに言った。
「……エリィ、さ」
「うん」
「あの山に、行くつもり?」
エリィは答えなかった。
答えないまま、窓の外を見た。
もう山脈はほとんど見えなかった。空が暗くなって、輪郭だけが残っていた。白い線。それだけ。
でも音は聞こえた。
金属の音。
今日は、初めてはっきり聞こえた。金貨が一枚、石床に落ちる音。それが二度、三度。まるで誰かが、向こうから数えているような。
「わからない」とエリィはようやく言った。「でも」
「でも?」
「呼ばれてる気がする。呼んでるかどうか、山は何も言わないけど。ただ」
「ただ?」
「あの子の家が、冬の間ずっと寒いことは、わかる」
マリアはエリィを見た。
エリィは山の方を見ていた。
「それが全部つながってる気がして、うまく言えないけど」
「エリィ」マリアがゆっくり言った。「それって、もう答えが出てるんじゃない」
「そうかな」
「そうだよ」
馬車が揺れた。
金属の音が、遠くなった。
でも消えなかった。
エリィの耳の奥で、一定のリズムで、静かに続いていた。まるで最初からそこにあったように。まるでエリィが聞くのを待っていたように。
聖堂に戻ったのは夜だった。
見習いたちはそれぞれの部屋へ散っていった。エリィも自室に戻り、外套を脱いで、ベッドに腰を下ろした。
腹が減っていた。蜂蜜菓子だけでは足りなかった。でも夕食の時間はもう終わっていた。
机の上に、何かあった。
小さな包みだった。布で包まれた、平たい何か。エリィは部屋を出る前に、あんなものは置かなかった。
手に取ると、中に折りたたまれた紙と、硬いものが入っていた。
紙を開いた。
文字が一行だけ書いてあった。
持ちなさい。使うかどうかは自分で決めること。
包みの中のものを取り出した。
三枚の、薄い金属板だった。
一枚は赤みを帯びていた。
一枚は青みを帯びていた。
一枚は白かった。
裏に、それぞれ何かが刻まれていた。エリィには読めない文字で。でも触ると、何かが指先に伝わってくる気がした。熱さでも冷たさでもない、もっと別の——
遠くで、鐘が鳴った。
夜の鐘。
聖堂の鐘だった。
でも、それに重なるように。
もう一つの音が、したような気がした。
金属の、薄い、硬い音が。
エリィは三枚の板をしばらく見た。それから包みに戻した。鞄の底に入れた。
誰に貰ったかは、たぶん考えなくてよかった。
ただ、渡されたのだということだけを、頭の中に置いた。
窓の外、空は晴れていた。
山の方向に、星が出ていた。
エリィは窓を閉めた。腹が鳴った。
「……明日、ヴェルト師のところで何か貰えるか聞いてみよう」
独り言を言って、ベッドに横になった。
眠れるかどうかはわからなかったが、目を閉じると、思ったより早く、眠れた。
夢の中でも、どこかで金属の音がしていた。
でもそれは、不思議なことに、怖くなかった。




