第十一章 橋の話、あるいは言葉だけが残ること
庭を出た後、岩の道はしばらく続いた。
エリィはまだ、金貨の音を耳の奥に感じていた。正確には、もう聞こえていない音の形が残っていた。音が消えた場所の輪郭だけが、まだそこにあった。
子供がいた場所の形を、覚えていた。
歩きながら、それを手放さなかった。手放し方がわからなかった。
橋が、あった。
渓谷に架かっていた。
渡り始める前に、霧の下を見た。深さがわからなかった。色のない空白があるだけで、底が見えなかった。風も、音も、なかった。
橋は石造りだった。古かった。幅は二人並んで歩けるくらい。手すりはあったが、低かった。信頼するには心許なかった。
「渡るの?」エリィはそのものに聞いた。
「渡らないと向こうに行けない」
「向こうには何がありますか」
「向こう」
「それだけですか」
「それだけ」
エリィは橋を見た。長さは、見えなかった。霧が向こう側を覆っていた。
男が、最初に踏み出した。
迷わなかった。橋の端に立って、一瞬も立ち止まらずに歩き始めた。荷物を抱え直す仕草もなかった。ただ、歩いた。
カエルが次だった。
一度だけ、橋の下を見た。それから前を向いて、歩き始めた。
エリィが踏み出したとき、後ろでそのものが言った。
「渡るたびに、一つ忘れる」
エリィは振り返らなかった。
「聞こえました」とだけ言って、歩き続けた。
最初は、わからなかった。
何かが変わったかどうか、最初の数歩では判断できなかった。足の感触は同じだった。空気も同じだった。
ただ、何かを探したとき——
聖堂の朝の匂いを思い出そうとしたとき、形が薄かった。
確かにあったはずの匂いだった。冬の石の冷たさと、蝋燭の燃えるやわらかさが混ざった匂い。毎朝、目を覚ますたびにあった匂い。
あったことは、わかった。
でも、匂いそのものが来なかった。
カエルが、途中で一度だけ立ち止まった。
ほんの一瞬だった。すぐに歩き始めた。立ち止まった理由も、歩き始めた理由も、言わなかった。
エリィは見ていたが、何も言わなかった。
男の方は止まらなかった。橋を渡り始めてから、一度も歩幅が変わっていなかった。顔が変わっているかどうかは、背中しか見えないのでわからなかった。ただ、速さが変わらなかった。何かを失っている人間の歩き方ではなかった。
何も変わっていない者の歩き方だった。
橋の中間に差し掛かるころ、聞こえなくなった。
何が聞こえなくなったかを、すぐには言葉にできなかった。
それから、わかった。
聖堂の鐘の音が、消えていた。
正確には——鐘の音の記憶が、消えていた。どんな音だったかを思い出せなかった。深く、重く、石畳に響く音、だったはずだった。でも音そのものが来なかった。鐘が鳴っていた、ということだけが残っていた。
腹が、鳴った。
霧の中で、橋の上で、はっきりと。
エリィは一秒だけ止まりかけて、止まらなかった。立ち止まると、何かが変わる気がした。理由はなかった。ただ、そう思った。
歩き続けた。
マリアの顔が、薄くなった。
気づいたのは、声を聞こうとしたからだった。マリアの声を、頭の中で再生しようとして——顔が、はっきりしなかった。
髪の長さは、覚えていた。目が赤くなっていたことも、覚えていた。でも、顔の形が、来なかった。鼻の高さ。口元の癖。エリィの名前を呼ぶときの、あの顔が。
「マリア」という名前は、あった。
はっきりと、そこにあった。消えていなかった。
でも人が、揺れていた。
エリィは歩きながら、マリアのことを思った。思おうとした。何か、具体的なものを探した。
そのとき——
言葉が来た。
顔の代わりに。
止めない。でも腹立つ。
声の質まで、そのままだった。きっぱりとしていて、泣きそうで、それでもはっきりしていた。マリアにしか言えない言い方で、そこにあった。
顔が見えなくても、あの言い方だけが消えなかった。
エリィは息を一つ吐いた。
歩き続けた。
名前が、揺れた。
自分の名前を心の中で呼んだとき、少し——形が不確かだった。
エリィ、という音はあった。でもそれが自分のものだという感覚が、薄くなっていた。
名前は人が決める。
ヴェルト師の言葉が、来た。
果物は何も決めない。
エリィは橋を見た。先が霧に覆われていた。向こう岸が見えなかった。
でも。
頭の中に、問いがあった。
金林檎はおやつに含まれますか。
消えていなかった。
名前が揺れても。鐘の音が消えても。マリアの顔が薄くなっても。この問いだけが、はっきりとそこにあった。
なぜかはわからなかった。くだらない問いのはずだった。第一章の、馬車に乗る前の、朝の広間の話だった。でもこれだけが、他の何より鮮明に、そこにあった。
エリィは少し、おかしいと思った。
それから、おかしくないかもしれない、と思い直した。
問いは、名前より先にある。問いが生まれたから、名前が必要になった。だから名前が消えても、問いは残る。
かもしれなかった。
確信はなかった。でも、そう思いながら歩いた。
霧が、薄くなった。
足元の石が、変わった。橋の石と少し違う、向こう岸の石になった。
渡り切っていた。
エリィは立ち止まった。
手を見た。
自分の手だった。普通の手だった。傷もなく、変わってもなく、ただそこにある手だった。
手の甲を見た。甲を見て、何かを確かめようとして——何を確かめようとしたのかが、すでに薄かった。
でも手は、そこにあった。
エリィは手を、そっと握った。
それだけだった。
それで十分かどうかは、わからなかった。
金属の音が、向こう岸でも聞こえた。橋を渡る前と、同じ音だった。
ただ、少し近かった。




